息を吸うと、きんと冷えた冬の空気が胸に染み渡る。
今朝は雨で、ただでさえ暗い冬の朝がいっそう暗い。
夜のうちに冷え切った室内では、十人ほどの少女たちが動き回る。
ルームメイトにコルセットを締めてもらう者、冷たい水で顔を洗う者、髪をとかして結い上げる者、皆湿った寒さから逃れようと忙しなく身支度を調えていくが、女子寮ゆえの華やかさも漂っていた。
今日は日曜日。教会でのミサのあとは、自由に過ごすことができる。
勿論、スタグフォードの生徒として恥ずかしくない節度をわきまえて、という条件付きだが。
夜の寝間着姿からさっと着替えを済ませた亜夜子は、窓から空を見上げた。まだまだ雨は止みそうにない。
「あいにくの天気ね、久しぶりのお休みなのに」
声を掛けてきたのは隣のベッドを使うマーガレットだ。
ある事件がきっかけで知り合い、親しくなった。
燃えるような赤毛の持ち主で、少し取っつきにくいところはあるが、日本からの留学生である亜夜子にも親切な優しい少女だ。
「うん、お散歩に行けないのは残念だね。マギーがハクチョウを見に連れて行ってくれるって言ってたから、楽しみにしてたんだけど……」
今日は敷地内の湖畔で散策を予定していたが、どうやら控えた方が良さそうだ。
「ハクチョウを見る機会はこの国にいる限り幾らでもあるわ。でも雨には雨の楽しみがあるものよ。あのファグマスターが休みをくれるなんて、そうあることじゃないもの、楽しみましょう。まったく、あの人ももう少しあなたなしの生活を味わって、あなたに支えられている自分の日常がどんなに貴重なものなのか理解した方が良いと思うわ!」
「はは……」
あのファグマスター、というのは最上級生のレジナルド・バージェスのことだ。
亜夜子はレイと呼ばせてもらっている。
留学早々亜夜子はレイのファグになった。
ファグマスターはファグを教え導き、時には後援となり、ファグはファグマスターに仕え、雑用をする。
レイは亜夜子のファグマスターであり、亜夜子は彼の課す仕事、たとえばお茶の準備だとか、お湯を運ぶとか、そういった細々としたことをこなしている。
勿論、普通の男子生徒は女子生徒をファグにしたりしない。
紳士なら持ってしかるべき女性への労りなんてものもレイにはないらしく、亜夜子は雑用に走り回る日々だ。
だが、昨日の夕方、レイの友人のシーモアが亜夜子を訪ねてきて、今日と明日はレイの元に行かなくていいと告げたのだ。
なんでも、レイは研究室に籠もって重要な実験をするとかで、集中を乱されたくないそうだ。
「私もあの方には感謝してるけど、人使い方の荒さを見ると腹が立ってくることがあるの」
マギーは微かにそばかすの浮いた白い頬をふっくら膨らませて言った。
「やっぱりマギーから見ても荒い? 私もそうは思ってたんだけど……」
「普通はファグって一人じゃないもの。何人かいて、輪番でやるものよ」
「そっかあ……」
確かにもう一人二人いるだけで亜夜子も楽になる。とはいえあの気難しいレイが自分以外のファグを選ぶかというとその可能性も薄い気がする。
「朝は早くからアイロンかけた新聞を持っていって、食事の度に給仕して、そのほかにもしょっちゅう用事を言いつけられてるでしょう。たまには一日自分のために使ってね」
「うん、ありがとう、マギー」
そう、ともあれ今日は休みなのだ。しかも日曜日。雨の一日をどうやって過ごそうかと亜夜子は考え始めた。
たとえば、部屋で手仕事というのはどうだろう。
ストーブを囲み、女友達とお喋りをしながら刺繍をしたり、お菓子をつまんだり……よくある女子寮の光景だが、早朝から忙しく駆け回る亜夜子にはあまり経験のないことだ。
(楽しそう)
そう思うと、雨の音も音楽のように聞こえてきた。
ちょうどそのとき上級生に急ぐよう声を掛けられ、亜夜子とマギーはばたばたと少々慌ただしく部屋を出て、階段を下りた。
亜夜子が秋から籍を置いているのは、十四世紀に聖職者の学校があった跡地に作られたという、スタグフォード校。
亜夜子が知る限りでは、この英国で唯一の男女共学校だ。
五百人の全校生徒のうち、女生徒は四十人。
煉瓦造りの三階建ての女子寮から、その女生徒たちがあくまでしとやかに出て来る。厳格な舎監教師と最上級生の監督生に挟まれて。
蔦の絡んだ煉瓦造りの外壁に、切妻屋根、そして《風見館》の由来ともなっている風見鶏。風もない今日、風見鶏は雨に濡れてつやつやと光って見えた。
♢ ♢ ♢
昨日の夕方、つまり土曜日の夕方、レイはフットボールの練習があり、亜夜子は女子寮で課題の作詩に取りかかっていた。
そこへ来客だと呼ばれて行くと、玄関ポーチで――というのも女子寮は男子禁制なので――レイの友人、シーモアが待っていた。
眉目秀麗で伯爵家の御曹司、でもどうにもだらしないところのある人物で、年上ながら亜夜子と同じ授業を受けていたりもする。
彼は亜夜子に、今日と明日はもうレイの部屋に行かなくていいと告げに来てくれたのだ。
亜夜子はぼんやりと昨日のシーモアとのやり取りを思い出していた。
そこは八角形の中庭に面した温室で、晴れると明るく、刺繍やワックスワークなどの手仕事に向いていた。
とはいえ今日のような天気では明るさとか暖かさとかいう点ではかなり問題がある。亜夜子たち数人の女生徒は、ストーブを囲んで指先を暖めながら作業していた。
温かなミルクティーと、甘いビスケットが嬉しい。
お喋りをしながら手を動かし、ビスケットに手を伸ばし、笑い合い……。
だが、亜夜子の手も口もいつの間にか止まっていた。
「亜夜子?」
マギーに呼ばれて顔を上げる。
「うん、何?」
「何って、どうしたの? なんだかぼうっとしてたけど。具合でも悪い? 寒い?」
「あ、いいえ、大丈夫。ちょっと考え事してしまって」
他の女生徒たちは流行のロマンス小説の話で盛り上がって、一人二人手が止まっているほどだが、亜夜子はうわのそらだった。
マギーは亜夜子に身を寄せ、小声で囁く。
「もしかして、バージェス様のこと考えてたの?」
「……うん」
呆れたというよりは同情したという顔で、マギーは溜息を吐いた。
亜夜子はつい言い訳めいたことを早口で言う。
「ほら、いつも朝食も昼食も私が給仕してたし、研究室に閉じこもって実験なんてしてたら、寝食を忘れてそうだなって……思って……」
「……あなたも今日くらいはバージェス様のこと忘れたら?」
マギーが亜夜子のためにそう言ってくれているのはわかっていたが、亜夜子は頷くこともできずに俯いた。刺繍は十分前から進んでいない。
「毎日一緒だったから、気になってしまうの。それにね、思い返してみれば、昨日の昼に会った時、レイはなんだかぼうっとしていたみたいなの。実験続きで休んでいないのかもって思うと……」
亜夜子だって休みが欲しいとことあるごとに口にしているのに、いざ突然休みが降ってくると調子が狂う。別にそこまでレイのために働きたいわけではない。単純にレイのことが気になって、落ち着かないのだ。
「ちゃんと食べてるのかなとか、昨夜は寝たのかなとか、倒れていないかなとか……ビスケットが美味しいから、レイにも食べて欲しいなとか、そんなことを考えてしまうのよ」
「ファグマスターはあなたの子どもじゃないのよ……? 必要なら自分で食べるし、寝るし、だいたい一日やそこら食べなくても倒れたりはしないわ」
そこでまた今日何回か目の溜息をついて、マギーは言った。
「でも、そこまで気になるんなら、ビスケットを差し入れてきたら? 実験って言っても、たまには息抜きして気分転換した方が、効率がいいかも。バージェス様も、あなたもね」
「マギー……」
「今日はあなたと一緒に過ごせて嬉しかったわ」
「私もよ! 差し入れしたら戻るから、またお話しましょう!」
亜夜子はマギーをぎゅっと抱き締めた。
「夕食前の点呼の時には戻るのよ」
マギーは少し照れた様子でハグを返してくれた。
♢ ♢ ♢
レイは《城》に住む。
《城》とは名前の通り、何世紀も前にノルマン人が建てた城塞に増築と改築を繰り返した建て物で、今は二十人の成績上位者である《ロード》のための寮となっている。
その中でもレイが住むのは年中湿った冷たい空気が漂う塔の最上階で、そこに実験器具を持ち込んで、しょっちゅう色々な実験をしている。動物の毛と人間の体毛の違いとか、古い染みを血痕だと証明する方法とか。あちこちの土砂のサンプルだとか、各地の蝶や植物の標本なんかもある。
その実験室兼レイの私室に通じるドアを、亜夜子はノックした。
返事はない。
事前に《城》の調理場に立ち寄り、キッチンメイドからレイが食事を取りに来ていないことを確認していた亜夜子は、ピクニック用のランチボックスを抱えていた。
あいにくの雨でランチボックスのキャンセルが出たとかで、持っていってもいいと言ってもらえたのだ。
これも日頃キッチンに来ては芋の皮むきを手伝っているおかげかもしれない。
「レイ?」
もう一度ノックし、ドアノブを回してみる。ドアはあっさりと開いた。
ということは部屋にいるのだろう。
実験に夢中で聞こえていないのかなと思い、亜夜子はそっと部屋の様子をうかがった。
実験室に、レイはいない。
がらんとした部屋を見渡し、幾つか置かれた椅子のどれにも座っていないことを確認し、そうか仮眠中なのかも、と考える。
実験室の奥には螺鈿細工の施された東洋由来の衝立がおかれて、その向こうにレイの寝室がある。
かつて一度ベッドで眠るレイを起こそうとしてとんでもないことになったので、ここは慎重に衝立の向こうへ声をかける。ぐっすり寝ていたら起こしたくはないから、そっと小声で。
「レイ? あの、亜夜子です。そちらにいますか?」
「……亜夜子?」
掠れた声が返ってきた。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
カーテンを閉め切った寝室は薄暗いが、人物のシルエットくらいはわかる。レイはベッドの端に座り、水差しに手をかけていた。
「来なくていいと言っただろうに……いや、僕は少し前に起きたところだ」
そう言いながら、レイは水差しからコップに水を注ごうとして、どうやら手元を誤ったらしく、水をびしゃりと床に零してしまった。
どこに何があるかはよくわかっていたので、亜夜子は雑巾を持って寝室に飛び込み、さっと床を拭いた。レイは長くか細い息を吐いた。
「すまないな。手が滑った」
「いえ、いいんですけど……」
暗い部屋では顔色まではよくわからないが、なんだかレイはとても疲れた様子に見えた。声にも力が入っていない――
「休みなのに来たのか。つかの間の休日を楽しめばいいだろうに、君も暇だな」
……話す内容は相変わらずだ。
「もう! 私だってハクチョウを見に行こうって友達と約束してたんですよ。刺繍も途中だったし、別に暇じゃないです」
「ハクチョウは美味だが勝手に捕まえて食べれば厳罰に処されるぞ。昔それで捕まった男を知っている……」
「食べませんし雨ですから見に行けなくなりました」
雨、と呟いて、レイは目を上げた。
午後からは霧雨となったせいで、雨粒が窓を叩く音も聞こえない。外はただ静かだ。
亜夜子は分厚いカーテンを開けたが、相変わらず黒い雨雲に覆われた空は、大して明るくもない。
だが眺めは良い。雨に濡れた緑の芝生がなだらかな起伏で続き、その向こうには堅固な石造りの講義棟が見える。晴れていればさらにその向こう、森や川や境界の向こうの町の建て物なんかもはっきり見えただろう。
振り返った亜夜子は、改めてレイの顔を見て、眉を顰めた。
「なんだか毛艶の悪い猫みたいですよ」
「妙なたとえをするな」
言い返す声にも力がない。
光量不足のせいばかりではなく、レイの顔は青白く、それに随分汗をかいているようだ。毛布にくるまって、微かに震えている。
「……ちょっと失礼します」
「おい」
亜夜子は手を伸ばしてレイの額に触れた。
レイは抵抗しようと手を振り上げたが、その手もまったく力ない動きをして、ぱたりと膝の上に落ちてしまった。
「やっぱり! お熱がありますね!」
「熱がなければ人間は死ぬぞ」
「子どもみたいなこと言ってないで、横になってください。汗を拭くもの持ってきます。お着替えも用意しましょうか?」
「いい、自分でできるから君は帰れ。君が帰らないと僕も寝ないぞ」
その強情さに亜夜子もちょっとむっとしてレイを睨みつけ、しばし観察してその肩をとんと押した。
……ぱたん。
呆気なくレイの身体はベッドの上に倒れてしまい、そうなるともう枕から頭を上げるのもつらそうだった。
「…………」
レイはばつが悪そうだったが、結局おとなしく毛布の中に潜り込んだ。シーツに顔を押しつけるようにしてこほんこほんと咳き込んでいる。
「欲しいものありますか?」
レイが小さな声でないと呟くのを聞いて、亜夜子は大きく息を吸って吐いた。
レイが何故昨日の夕方から亜夜子に部屋に来なくていいと言ったのか、よくわかった。
レイはあの時たぶんもう風邪の症状が出ていて、亜夜子に風邪をうつさないために遠ざけたかったのだ。昨日は夕方から雨が降っていたし、その雨の中フットボールの練習をして、風邪を悪化させてしまったというところだろう。
彼がこういう人だということは――つまり他者を寄せ付けないように見えてそういう時ほど彼なりの優しさが根底にあるのだということはわかっていたはずなのに、見抜けなかったのが悔しい。
「私は結構丈夫なんです」
「……僕よりもか」
「それは……」
レイはどちらかというと室内で実験に勤しんだり論文を読んだり書いたりするのが大好きなタイプだが、フットボールチームのキャプテンとして走り回り、身体も鍛えている。年下で女の自分が彼より体力があるかとか丈夫かと言われると言葉に詰まる。レイだって風邪を引いたのだし、亜夜子がそれをうつされないと断言するのは難しい。
「じゃあ、できるだけ気をつけますよ。今日も長くはいませんし、寮に戻ってからも身体を冷やしたりしないようにしますし、早く寝て無理しません。大方レイは何日か徹夜して体力が落ちていたとかそんなところでしょう?」
「…………」
ふてくされた顔は図星の証だろうか。上目遣いに睨まれて子どもに睨まれているみたいで迫力がない。
「まずは拭く物持ってきますね。汗を拭いて乾いた着替えを用意して、レイが着替えている間に何か……あっ、ピクニックボックスもらったんですけど、無理そうなら何か作ってもらってきますよ。スープとか、ポリッジとか……」
「きゅうりのサンドイッチでいい」
レイはピクニックボックスのきゅうりのサンドイッチが好物だ。
亜夜子はぱたぱたと走り回り、タオルでレイの汗を拭いて着替えを渡し、彼が着替えている間にサンドイッチを用意した。換気のために少しだけ窓を開け、その間はレイにしっかり毛布を被っていてもらう。
「亜夜子」
呼ばれて近づくと、毛布を重ねた下からやや充血して潤んだ目でレイが見上げてきた。
もう帰れと言われるのかと思った亜夜子は、もしそう言われたらなんと反論しようかと考えながらその目を見返した。
だが、レイの口から出て来たのは予想外の言葉だった。
「君の淹れたお茶が飲みたい」
しばしの間亜夜子は思わずレイを見つめ、レイは不安そうな顔をすぐに枕に押しつけてしまった。
「あ……はい、すぐ用意しますね」
そわそわとして、自分がきちんと歩いているのか自信が持てない。ティーポットを落とさないようにしなくちゃとかそんなことを考えながら、亜夜子はお茶の準備をした。
どれをとは言われなかったので、なんとなく喉に良さそうなカモミールのブレンドを選んだ。優しい花の香りが部屋に漂う。
亜夜子がサンドイッチとカモミールティーのポットを載せた盆を持って寝室に入ると、レイはもう小さな寝息を立てていた。
「……あら」
仕方がないので、ポットにティーコゼーを被せて保温し、サンドイッチが乾かないよう全体を白い布巾で覆い、盆をベッドサイドのテーブルにそっと置いた。
目を閉じて眠るレイは、いつもの鋭さも厳しさも感じさせない。無防備で、幼くさえ見える。呼吸が少し苦しそうだ。
お茶が欲しいと言われるのは別に珍しいことではない。でも、今日のような日は特別な意味があるような気がする。野生の獣のように人に懐かないレイが、自分が弱っている時に他人を頼るなんて。
こんなふうに、寝顔を見せるなんて。
レイは、亜夜子に甘えているのだ。
それが嬉しくて、亜夜子の呼吸までなんだか苦しくなってしまう。
起きるまでそばにいたい気持ちもあったが、レイにもマギーにも早めに戻ると約束している。
亜夜子はふと思い出して持ってきたビスケットの包みを盆の上に置き、さらにたまたまポケットに入っていたミントキャンディもその隣に添えた。これは校長寮のミセス・アッシュベルの手作りで、舎監教師のお遣いで校長寮を尋ねた時、分けてもらったのだ。きっと喉にも良いだろう。
換気のため開けていた窓を閉め、暖炉に薪を追加して、洗濯物をまとめる。用事はもうなさそうだ。
自分の子ども時代を思い出し、亜夜子は眠るレイの額にそっと手を置いた。ひんやりと冷たい母の手が、気持ち良かった思い出がある。
しばらくそうしているとレイの呼吸が楽になったので、亜夜子はハッと我に返り、自分のハンカチを濡らして額に置いてやった。
別に他の適当な布を使えばよかったのかもしれないが、洗ってまだ使ってないから綺麗なはずだし……と心の中で誰へともなく言い訳して。
(もう行かなくちゃ)
雨は小降りになっていたが、夕暮れが近づいている。
だが寝込むレイを置いていく決断がなかなかできず、ベッドのそばに立ち尽くしてしまう。
部屋は暖かいし栄養も取れるようにした、でも風邪だって人は死ぬ。
いや、風邪ではないもっと悪い病気かもしれないし、熱が何日も下がらなければ体力も落ちてしまう。
そばにいたい。
「亜夜子ちゃん?」
自分を呼ぶ声と足音に、亜夜子は驚いて振り返った。
レイの友人であるシーモアが、寝室を覗き込んで目を丸くしていた。
「今日は行かなくていいって伝えたはずだけど……何か心配になっちゃったかな?」
伝え方が悪くて心配させちゃったのかなあとシーモアは困り顔だ。
「すみません、レイがどうしているのか気になってしまって、様子を見に来たんです」
「それで色々世話焼いてくれたんだね。ありがとう、本人寝てるみたいだから代わりにお礼言わせてもらうよ」
シーモアは林檎やらパンやらを抱えた袋を持っている。彼も看病をしに来たのだ。
「あとは私がやっておくから、もう心配しないで。先生の許可は取ってあるからね」
「はい……」
ファグとはいえ女生徒である亜夜子が遅い時間までレイの看病をする許可はもらえそうにない。それくらいなら看護婦をつけると言われるだろう。
それに、シーモアはレイの親友だ。彼に任せておけば大丈夫だろう。
ここに来て、亜夜子もようやく踏ん切りがついた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「うん。送っていくよ」
「大丈夫ですよ、まだ明るいですし。レイのそばについていてあげてください」
もう一度よろしくお願いしますと頭を下げて、亜夜子は部屋を出た。
♢ ♢ ♢
雨は霧のように細かな水滴となって、肌にまとわりつく。
亜夜子は塔を出たところで、ふとハンカチをレイの額に置いたままだったことを思い出した。
そうして少し嬉しくなった。
ハンカチだけでもレイのそばに置いておけたことが、嬉しかった。
明日の朝、いつも通りの時間に来てみよう、もし文句を言われたら、今日はお休みもらってませんからと言おう。
亜夜子は傘の下から煙るような景色を眺めつつ、友人たちと風見鶏が待つ館への道を辿った。
そして、なんだかんだで亜夜子は翌日ハンカチを返してもらいそこね、その白い小花の散ったハンカチは、長い間レイの手元に置かれることになるのだった。
おわり