魔力環境研究室のドアを開けたヤムセは、むっとする刺激臭に一瞬咳き込んだ。何か妙なガスが発生したのかと思ったが、刺激臭に混じって甘い匂いがすることに気付いた。心地よく、どこか郷愁をくすぐる、砂糖とバター、それにチョコレートの匂いである。

「…………!?」

 異変はそれだけではなかった。共用の長机を囲むように置かれた椅子には先輩であるバドとテヨルが座っていたのだが、その表情がおかしいのだ——沈痛、とでもいうのか。そのくせ机の前に立って作業をしているリティーヤは、うきうきとして非常に嬉しそうだ。

 やばい。

 渉外担当官として長年命を狙われるような状況にも何度も身をさらしてきたヤムセの全神経が告げた。

 これは、なんだかよくわからないが、危険だ、と。

 くるりと背を向けその場から可及的速やかに去ろうとした彼のコートを、最前まで机に向かっていたリティーヤが笑顔で掴んだ。とんでもない素早さだった。おそらく今必死で逃げ出す隙を窺っている先輩二人もこの調子で捕獲されたのだろう。

「先生こんにちは! あのね、いいものがあるんです!」

 机の上には巨大な皿があって、皿には巨大なケーキが載っていた。それは確かにケーキだった。チョコレートでコーティングされた表面はつややかに輝き、リティーヤの手になるものだろう、ばら色のマジパンで可愛らしく飾られていた。彼女もこういうセンスはあるのだ。

「ほら、おいしそうでしょう! 今日ね、食堂でケーキの試作品のお手伝いしたんです! そしたら完成品持って帰っていいって言ってもらって! 今最後の飾り付け終わったんで、これから切りますね!」

 確かにそのケーキは非常においしそうだった。

 だが、ヤムセは嫌な予感しかしなかった。

 ケーキの試作をしたら、当然試食をすべきである。ところが食堂はこんなにも巨大なケーキを試作させておいて、試食もせずに持ち帰らせた。

 答えは一つ。制作過程を見た厨房の人間たちが、やる気満々の彼女と異臭を発するケーキを研究室に押しつけたのだ……。

「……おまえ、料理できたのか」

 ヤムセは絶望的な気分でそう尋ねた。

 リティーヤは自信満々に胸を張って答えた。

「勿論ですよ! これでも家にいた時はブタとかイヌとかのご飯を作るのがあたしの仕事だったんですから!」

 それは、餌だ。料理ではない。

 ヤムセは言っても無駄だろうなと思うと、もう口を開く気力もわかなかった。

おわり