部屋の床は汚れている。
食べかけのサルサに砂糖漬けの果物。鼻を突くのはサボテンから作る蒸留酒の匂いだ。隣国メルキスからはるばる船で禁酒法下の港に密輸されてきた酒が、床に零れて染みを作っている。
クッション張りのソファには、数人の移民の若者が腰を下ろし、声を上げていた。
「やれ、やれよ!」
「男を見せてやれ!」
「ヒュー! さすがだぜ!」
暗い部屋の壁に、映写機が像を結ぶ。農場主と、女と、若者の恋と活劇。少し前にメルキスから輸入されてきた、面白いと評判の娯楽映画だ。
ルチアは黙って照明を付けた。
突然部屋が明るくなって、男たちは目を瞬いて、それから戸口にいるルチアに気付いて不満の声を上げた。
「何するんだよ!」
「いいところだったんだぜ!」
「あんたたちこそ何してんのよ」
ルチアは氷より冷たい目で男たちを睨みつけた。
「あたしの部屋を仕事以外で使うなって言ってるでしょ」
彼らは、カーテンを閉め切り、映写機を持ち込んで、ルチアの部屋で上映会をしていたのだ。
「そう怒るなよ。おまえ、映画好きだろ?」
そう言って立ち上がったのは、長身のメルキス系の若者だった。名前はリカルド――新興の犯罪組織、アリスタ・ファミリーの若きボスだ。
ルチアは彼にも冷たい視線を向けて言った。
「部屋を汚されるのは嫌い」
ウェストエンド市はかつてデ・コスタ・ファミリーの支配する都市だった。
今はもう彼らだけの都市ではない。デ・コスタは観光業や違法賭博などに変わらず大きな力を持ってはいるものの、港の支配権はアリスタ・ファミリーに奪われているし、清廉な新市長は汚職の撲滅と犯罪組織の解体を目指して邁進中だ。
アリスタ・ファミリーはメルキス系の移民や二世を中心とした犯罪組織で、ここ数年で力を付け、頭角を現してきた。
メルキス本国には《長老たち》がいるそうだが、ウェストエンドの組織のトップはリカルドという男だ。
リカルドは、太い眉、二重の目、よく笑う口と、なんでもかんでもパーツの大きい、派手な容貌の持ち主で、デ・コスタとの抗争で負傷した右手には黒手袋を嵌めている。
褐色の肌に白い歯、癖の強い黒髪という色の対比も鮮烈な、とにかく一度会ったら忘れられない印象を残す男だ。
ルチアの兄とは全然違う。
それを言えば、アリスタ・ファミリーで兄と似た人間なんか誰もいない。
犯罪組織なんだから、悪いことをする男たちなんだから、似通ったところがあってもいいような気がするのに、彼らの姿と兄の姿が重なることはない。
彼らは大声で喋って、笑って、下品なことを言うし、けんかっ早い。
ルチアの兄は違った。彼は女性が眉を潜めるようなことを言わないし、大声で怒鳴ったり、脅しつけたりもしない。
ルチアが見ている前で人を殴ったりなんてこともしなかった。
(考えてみりゃ、こいつらが特殊なんじゃなくて、兄貴が特殊だったんだ)
ルチアは部屋の惨状を前に、そう思った。
ルチアは現在リカルドの口利きで撮影スタジオで働いている。
現場にまっとうなメーキャップがいなければメーキャップもやるし、ドライバーがいなければ俳優やスタッフの送迎もやるし、買い出しとか、ちょっとした連絡とか、手配とか、 とにかく一切合切、なんでもやっている。
今住んでる部屋も、組織の紹介だ。
というか、このアパートメントの大家自身が、組織に関係ある人間なのだと思う。ルチアの払った家賃の幾らかは、組織の懐に入っているはずだ。
だから、ルチアの部屋に組織の人間が出入りすることなんて、別に珍しくもない。
だがそのたびにルチアは部屋を綺麗に使えと文句を言う。片付けていけと声をかける。仕事以外で使うなと断っている。
庇護下にあるからといって、言いたいことを我慢する必要はない。
ルチアは組織に協力している。利益も受けている。
でも、お互いにできることとできないことがある。
勿論、言いたいことを言ったって、必ずしも相手が聞いてくれるわけではない。
でもよ、とリカルドが子どもの言い訳のような口調で切り出した。
「おまえに用があって来たんだよ」
「用って? 映画上映してどんちゃん騒ぎ?」
「これは……まあ、ほら、ちょっとした脱線ってやつだ。俺たちの用事ってのはな……」
リカルドは映写機の近くにいた仲間に合図を出し、それを見た仲間はフィルムを止めて、差し替えた。
リカルドが頼み事をする時の顔で自分を見てくるので、ルチアは舌打ちして部屋の電気のスイッチを切った。
しばらくしてスクリーンに映ったのは、どこかけばけばしいベッドルームのセットだった。
「何これ」
問うと同時に、セットに男が三人入ってきた。一人は目隠しをされていて、残る二人は顔から紙袋を被って、目のところだけ出している。
一人は目隠しの男を殴りつけ、倒れたところを別の一人が蹴っている。
リンチだ。
「で、このあとなんだけどな……」
目隠しをされた男は跪かされて、その後頭部に銃口があてがわれて……
サイレント映画だから発砲音もなかったが、血が飛び散って男は倒れた。床に血が広がる。目隠しがずれて、片方の目だけがちらりと見える……。
「……これだ」
何が、とルチアはリカルドを見やった。
照明をつけたリカルドは、今はもう何も写っていないスクリーンを親指で差して、尋ねた。
「これだよ。どう思う?」
「どうって……構図も陳腐で出来が悪い上に胸くそが悪いよ。映画の一場面?」
「というか、これで全部だ」
「?」
「これは裏で流通してるフィルムだ。本物の殺人を映したってんで、人気なんだよ」
「さつじん……」
ルチアは続く言葉を失って、ただ白いだけのスクリーンを見つめた。
「このフィルムが、うたい文句通り本当に殺人フィルムなのか、確かめたい」
「……私が確かめるの?」
リカルドはルチアに微笑みかけて、さっきと同じ言葉で尋ねた。
「おまえ、映画好きだろ?」
映画は好きだが、殺人フィルムなんて見たことがないし、存在自体今初めて知った。
ルチアはしばらく考えた。あの《死体》が本物なのかどうか、あの《血》が本物かどうか――冷静に。それから、答えた。
「もう一度見せて」
リカルドは準備していた仲間に向かって頷いた。
《死体》は前のめりに床に倒れて、ずれた目隠しから右の目だけがちらりと見える。
光の加減で、その目元は陰になって、瞳孔のようすはわからない。
フィルムはしばらく《死体》を映していた。
ルチアは無言で映写機を操作し、繰り返し《惨殺》シーンを見つめる。
「この《死体》は、作れると思うか?」
何回目かで、リカルドにそう問われた。
ルチアは少し考えてから、結論を言葉にした。
「作れる。血糊を袋に入れて、こことここにつけておいて、合図で破裂させるの。目隠しがあるから、その下に細工を仕込める。こういうふうに顔がカメラを向いて倒れているのも違和感がある。これは演出なんじゃないかな。死体の顔が見える方が、客が喜ぶから。そうじゃないなら、死体役が顔面から床に倒れるのを怖がったせいかも」
殺人フィルムと言われた時は恐怖が先に立って動揺してしまったが、冷静になって繰り返し見てみれば、粗を見つけるのは難しくなかった。
「他に気付いたことはあるか?」
「……この撮影場所、知ってるよ。前にあんたの使いで行ったモーテル」
「モーテル?」
「ほら、バンブー・バンブー・インとかいうとこ。この竹細工のランプ、オーナーがアジア旅行して持ち帰ったものだって。半分は東洋趣味に改装した、あのモーテルだよ」
「あそこか。いい記憶力だ」
リカルドは連れの若者たちに目配せした。
あくびをしたり、砂糖漬けの甘ったるい果物を摘んだりして暇そうにしていた彼らは、予想外に素早く立ち上がった。
「待ちなよ」
きつい口調で、ルチアは言った。
「ここ片付けていきなよ」
「悪いが急いでるんだ」
リカルドは白い歯を見せて笑う。
「実はな、そのフィルムで殺されてる男、少し前にうちの店から金持って逃げようとしたバーテンダーなんだよ。金の方は支配人が勘の良い奴で持ち逃げされなかったんだが、こいつは逃がしちまってな。探してる時にこのフィルムを見つけた。ほら、手に火傷の跡があってわかったんだ。果たして本当に殺されたのか、確かめようっておまえのとこに持ち込んだんだ。だが殺されてないってんなら、急いで探さねえとな」
「探して……どうするの?」
聞いていけないことだった。
それは口にした瞬間に理解したが、もう言葉を引っ込めることはできない。
リカルドはルチアの思いを察したのか薄く笑うだけで答えなかったが、それでもう十分だった。
男を見つけたら、リカルドは彼を殺すのだ。
金を持ち逃げしようとしたやつだから。
ルチアは男たちが出ていった扉をしばらく見つめて、それからのろのろと部屋の掃除を始めた。
ルチアはソファに飛び込み、お気に入りの――前の家から持ち込めた数少ない一つ――レースのカバーがついたクッションに顔を埋める。
「はああ……」
海岸でのロケは日差しがきつくて体力を奪われるし、細かな気遣いも必要だ。
ロケだけでも疲れていたのに、その上繰り返し集中して殺人フィルムを見て、最後は掃除だ。
何より一番の問題は、ただ一人、さっきまで殺人フィルムが上映されていた部屋にいるということだ。
殺人といっても、勿論殺人じゃない可能性も高いとルチアは見ている。
たぶんあのフィルムの男は生きていて、リカルドから逃げおおせるためにフィルムに出たのだ――逃亡資金となる出演料と、あわよくばリカルドの目を眩ませて、自分は死んだと思わせるために。
だが、もう何も写っていないスクリーンを見るたびに、ルチアはあの男の《死に様》を思い出した。
処刑スタイルで、血を流して……もし彼が本当に生きていて、このあとリカルドに捕まれば、あんなふうに死ぬかもしれない。
あの血は現実のものとなるかもしれない。
たとえフィルムの中では偽物だったとしても。
(だとしたら、あたしが殺したも同然だな)
大した感慨もなくそう思う。
ルチアの兄はデ・コスタ・ファミリーの人間だった。
兄の死をきっかけにデ・コスタを裏切りアリスタについて以来、ルチアはアリスタ・ファミリーの庇護下にいる。
今の仕事も彼らに紹介されたものだし、住んでいるアパートメントは彼らの管理下にあって、ルチアの部屋にも時々組織の人間が出入りしている。病気の母はアリスタの息の掛かった病院で手厚い看護を受けている。
つまり、正式な構成員かどうかはさておいて、ルチアはアリスタ・ファミリーと関わって暮らしている。
こんなふうに犯罪の片棒を担ぐのは今に始まったことじゃない。
今回なんて、どうせ見つかって始末されるのは才覚もないのにアリスタを裏切った犯罪組織の人間だ。一般人が巻き込まれているわけでもないし、放っておけばいい。
だが――
スクリーンに映っていた死体の顔が、兄の顔に重なった。
ルチアはびくりと震えて目を開けた。いつの間にか脂汗を掻いていた。
兄も殺された。デ・コスタを裏切り、殺された……だからルチアはアリスタについた。
(あの男にも家族がいたのかな)
突然そんなことが気になってしまった。
そんなことを考えてはいけないのに。
そんなことを考えては、何もできなくなる。息もできなくなる。
手で顔を覆う。考える。
リカルドたちはバンブー・バンブー・インを当たるだろう。
撮影現場であり、手がかりが残っているかもしれない。
モーテルのオーナーがフィルムの撮影に協力したのなら、捕まえて情報を吐かせることもできる。
映像の男はきっと捕まる。
ルチアは時計を見た。
夜の八時。
明日も早朝からロケがある。もう寝た方がいいのはわかっている。
それでも、重い身体を引きずるようにルチアは立ち上がった。
モーテルへ。モーテルからバーへ。
ルチアは手がかりを求めて車を走らせ、最終的に閉店後のクリーニング店にたどり着いた。
裏口は開いていて、壊れたドアノブが地面に落ちている。
中へ入って最初に目に付いたのは、散乱する大量の白いシャツと、飛び散った血――これは血糊じゃなくて本物の。
そして、リカルドが振り向いた。ルチアを見て眉を上げる。
「なんだ、来たのか。どうやった?」
「あんたたちと同じように辿ったんだよ。モーテルから……」
モーテルでは支配人から話を聞いた。
すでに先月のことだったが大荷物を持ち込み男ばかり4人も5人も揃って部屋を借りたグループは印象に残っていたらしく、支配人は彼らがレストランに行くからとタクシーを呼んだことを覚えていたし、それをほんの一時間ほど前にリカルドらに話したとも言っていた。
以前から密かに酒類が提供されていたそのレストランは、禁酒法撤廃後はおおっぴらに酒を出すようになり、どちらかというと料理の味より酒の種類で客を集めていた。
レストランでは接客係と用心棒が男たちを覚えていた。
男たちの一人が常連客と喧嘩になって、椅子を壊して店に弁償していたのだ。おかげで用心棒は手持ちがないと言う彼らに付き添って金を回収しに行き、そいつの名前と店の場所も把握していた。
実際のところレストランも用心棒もデ・コスタの息がかかっていたからちょっと面倒なことにはなったが、結局夜が明ける前にリカルドもルチアもクリーニング店の住所を手に入れられた。
リカルドたちはルチアより一足先に同じ店にたどり着いて、そこに匿われていた裏切り者を見つけ出していた。
裏切り者は若い男で、怯えた目で蹲って震えている。
殴られ、折られた鼻から血が流れて顔の下半分と白いシャツを汚している。
ほとぼりが冷めるまで隠れているつもりだったか、クリーニングのトラックでこっそり逃げ出すつもりだったのだろう。
「それで、何しに来た?」
リカルドと部下たちの視線がルチアに集まっている。
(本当に何しに来たんだろう?)
自問して苦笑しそうになる。わざわざこんな、苦労をして。真夜中になって。
床に血だらけで座り込んでいるのは裏切り者の若者だけではなく、彼を匿ったクリーニング店のオーナーも一緒だった。
二人揃ってぶるぶる震えている。
「……フィルムの出来が悪かったから」
ルチアは溜息と一緒に、そう言葉を吐き出した。
リカルドは眉を顰め、首を傾げる。
「あん?」
「あの『殺人』フィルムだよ。もう少しマシなの撮り直せば、稼げるよ。機材はその男たちが持ってるんだろ」
「こいつらのリンチ殺人撮るってことか?」
「リンチ殺人撮ったら犯罪の証拠になるだろ。演技だよ、演技と演出。それでいて、フィルムが出回れば本物の殺人っぽく見えるから、みんなこいつが本当に殺されたんじゃないかって疑う。あんたを裏切ったら、リンチ殺人の現場をフィルムに撮られてその死体まで金稼ぎのネタにされるって恐れられる。どうだい?」
「どうだいって、そいつらは俺が犯罪の証拠をばらまく馬鹿だって思うのか?」
「一線越えてるって見られる方が、あんたの商売じゃうまくいくんじゃないの? それに、実際には殺してないから別に怖くもない。警察にはたっぷり賄賂握らせてやりなよ。こんな証拠があるのに警察は動かないって見せつけてやるんだ」
「元々ここの警察なんて怖かねえよ」
リカルドは平然と言う。
ルチアはどうして自分がこんなことをしているのかと自問する。
答えなんてない。兄の顔がちらついた、ただそれ以外には。
「だが、なんだっておまえがそんなこと提案する?」
リカルドからは当然の質問だ。
彼の口元は笑っているうようにも見える。見透かされているのかもしれない。感傷で彼が動かないことくらいは知っている。
だからルチアも笑った。
あの、兄の敵と思った『彼女』の顔を思い出して、笑い返した。
「映画は好きだからね。あんな出来のやつじゃ満足できないのさ」
いかれてる『彼女』を――デ・コスタのドンナ・ロザベラをリカルドは気に入っていた。
だからルチアも彼女のように振る舞った。
しかしリカルドは再び眉を顰めてルチアを睨み、額を指で弾いた。
「いたっ」
「強がってんじゃねえよ」
「な、なんだよ」
「ガキが強がるなって言ってんだよ」
「ガキじゃない」
「おいリカルド、どうすんだよ」
やりとりを見守っていた部下の一人が、うんざりした顔でリカルドに確認した。
リカルドは床に這いつくばる、あるいは座り込んで震える男たちを見下ろし、それから彼らの前に屈み込んだ。
「おい。機材あるか?」
「な、なんの……」
リカルドはちらっとルチアを見やった。
面白いものを見つけたみたいに、その目は笑っていた。
彼は、裏切った『死体役』の髪を掴み、顔を上げさせて言った。
「映画撮る機材寄越せよ」
どうにもうまくいかない。
「粘度が足りないな。もっとハチミツ入れようかな。それともチョコレート・シロップがいいかな」
「別に食いもんじゃなくてもいいだろ」
「食べ物じゃないと口に入った時気持ち悪いだろ」
モーテルの部屋は撮影と準備のために昨日からリカルドらが占拠している。
ルチアはスタジオの仕事が終わってから顔を出し、血糊や仕掛け作りに苦心している。
テーブルいっぱいに並ぶ血糊の試作品を前に、リカルドは退屈そうにあくびをかみ殺す。
「つーかもう実際に殺しちまった方が早くねえか?」
それを聞いていた撮影スタッフ兼死体役がひっと息を呑む。
「そんなことしたら映画撮れないだろ」
「まーな。でもなんつうか、思ってたのと違うというか……もっとこう、ほら、カット!とかやれると思ったんだよ。それなのにおまえ準備ばっかりだろ」
「でも映画で稼げるよ。裏で流通させられる」
「そうかねえ」
「そうだよ、実際そいつ逃亡費用稼いだんだろ」
「換金間に合わなくて逃げ損なったけどな」
けらけら笑うリカルドを無視して、ルチアは血糊の調整を続けながら言った。
「それに、映画のおもしろさってのは、偽物とか作り物とかが、一瞬でも本物みたいに見えるってところにあるんだ。少なくともあたしはそう思ってる」
「……ふーん」
リカルドは気のない相槌を打ち、テーブルの上に並ぶ水風船を手に取った。
「ちょっと、それ触らないで」
「これか?」
リカルドは、あろうことか、ルチアに向かって水風船を投げてきた。
「!」
咄嗟に手を出し、顔の前で受け止めたが、その衝撃で水風船がはじけた。
中身は、ルチアがさっき詰めた血糊だ。
フィルムで撮るから色は必要ないのだが、なんとなく気分で赤い方がそれっぽいかなと調合した、赤い血糊だ。
ケチャップと、ハチミツと、水飴の混合。
甘ったるい赤い液体がルチアの顔と手を汚し、さらにテーブルと床と絨毯と……リカルドのシャツにも飛び散った。
リカルドはげらげら笑った。死体役も引きつった笑みを浮かべた。
ルチアは静かに怒りを飲み込んで、顔の血糊を拭った。余計汚れが広がった。
「あんたねえ……」
文句を言おうとしたその時、ドアが開いた。
入ってきたのは、リカルドに呼び出されていたレオだ。リカルドの右腕で、彼のやることに毎回律儀に付き合っている。
レオはルチアに目を留め、抱えてきたテイクアウトのサンドイッチの袋を床に落とした。
「おま……っ」
言葉にならない。
レオは駆け寄ると、ルチアの顔を掴み、こねくり回し、傷を確認した。
まだ笑っているリカルドに気付いて、ようやく血糊だとわかって、へたりこむ。
「なんだよ……本物の血かと思っただろ……」
「撮影するって言ってなかったか?」
「聞いてねえよ」
レオはおまけとばかりにルチアの頬をつねってから放り出し、椅子に座ってハンカチを投げつけてきた。ルチアはハンカチを受け取り、顔の血糊を拭いながら、レオをからかう。
「びびったの? 本物と偽物の違いもわかんない?」
「……おまえほんと呆れかえるほどのクソガキだな……」
「なあ、レオ、頼んでた飯は?」
尋ねるリカルドに、レオは無言で床に落ちたサンドイッチを指差した。
ぶちぶちと文句を言いながらリカルドがサンドイッチを拾う。床に落ちたのは死体役に放り投げ、紙袋に残った方を抱えて戻ってくる。
「で、撮影ってなんだよ」
「殺人フィルムで一稼ぎさ。ルチアが監督演出、俺が脚本な」
縮こまる死体役を指差して、レオがリカルドに尋ねた。
「実際に殺すのか?」
レオの問いに、また死体役がひいいと身を竦ませる。
リカルドはにやにや笑って答える。
「偽物を本物だと信じこませるってのが面白いんだろ」
「ちょっと、それさっきあたしが言ったことでしょ」
「いい台詞ってのは何度言ってもいいもんだぜ」
「じゃあ偽物の殺人ってことか? そいつらが実際には生きてて報復されていないって周りに知られたら、あんたが舐められることになるんだぞ。本当に殺しちまった方が簡単だし後腐れがないだろ」
レオがどこかで聞き覚えのある反論をするが、リカルドは聞き流すように肩をすくめた。
「知られないようにすりゃいいだろ。本国への船に乗せるとかどっかで強制労働させるとか……まあ詳しくはおまえが考えてくれよ」
「またそれかよ……」
「それに、本物だからっていいもんだとは限らないしな」
「本物の殺人とか?」
呟くルチアに、リカルドは歯を見せて笑った。
「家族とかよ」
家族なんて本物の方がいいもんだろ。言いかけて、ルチアは言葉を飲み込む。
本物の家族。
ルチアは『本物』の兄を亡くした。
ルチアの『本物』の兄は嘘吐きだった。ルチアにも嘘を吐いた。
兄はルチアの前では粗暴な素振りを見せなかった。人を殴ることも怒鳴ることもなかった。
実際には、ルチアのいないところでは、そういうふうに振る舞うこともあっただろう。
何故なら彼は犯罪組織の構成員だったからだ。
人を殴って、脅しつけて、搾り取って、そうやって生きてきた。金を稼いで、幼いルチアや病気の母を食わせきた。
『本物』の兄。でも嘘だらけ。
リカルドも『本物』の家族を亡くしている。
リカルドも家族に嘘を吐いただろうか。死んだという妹の前では粗暴なところを見せないように気遣ったりしただろうか。
ふと、リカルドが言いたいことがわかった気がした。
リカルドは、自分にとって本物の家族がいいものだとは限らないと言いたかったわけではない――たぶん、自分の仕事に巻き込まれて死んだという妹のために、そう言ったのだ。
これは、自分が妹にとって『良い家族』ではなかったという意味合いの、後悔の吐露なのだ。
じゃあ何が偽物の家族なのだろう。
本物と偽物の話なんだから、偽物の家族の話もリカルドの頭にはあるはずだ。
偽物の家族。
ルチアはまじまじとリカルドを見つめた。穴が開くかというほど見つめた。
リカルドは笑っていた。
「あたしは違うからね」
咄嗟にそう口走った。
「何がだよ」
ルチアは手近にあった水風船をリカルドに投げつけた。リカルドは難なく身を躱す。
その躱した先に、もう一発。
ルチアの投げた二発目の水風船が、リカルドの顔面で破裂した。
仕込んでいたチョコレート・シロップの血糊が飛び散った。
リカルドからは甘い匂いがした。
「……あのな、」
「あたしは『本物』の兄貴が大好きだったし、『本物』の家族が大事だ」
ルチアは返り血ならぬ返りチョコレートを自分の頬から拭って舐めた。
「嘘もたくさん吐かれたけど、それはあたしを守るためだったってわかってる。別に恨んじゃいない。ちゃんと本当のことはあったからね。兄貴は本当にあたしたちを愛してた。それでいいんだ。だから、『偽物』は、絶対に『本物』には敵わないんだ」
リカルドがタオルで顔を拭い、顔を洗うべく立ち上がる。
「そんなことはわかってるさ」
リカルドは相変わらず笑っている。笑い飛ばしている。
ルチアは彼の考えがわからない。自分たちの関係がわからない。
ルチアはアリスタ・ファミリーの関係者だが、正式な構成員ではない。
警察からは構成員だと見なされているかもしれないが、構成員からは、マスコットか何かだと思われている。
ちょっと特別待遇の下っ端、ちょっと目端の利く便利な子ども。
たとえていうなら、末の妹か弟みたいな――
『偽物』の家族。
そこまで自分は彼らに気を許しているのだろうか。彼らは自分に気を許しているのだろうか。わからない。
だが、考え始めるとやけに落ち込む。泣きそうになる。
それはきっと今ルチアの気持ちが少し弱っているからだ。
復讐という目的を失い、犯罪社会の片隅で生きて、自分に迷いがあるから。
ルチアはリカルドが消えたシャワールームを睨み続ける。
レオは彼女の前にサンドイッチを置く。
「偽物の家族もいいことはあるだろ」
ルチアはレオをじろっと見た。
「たとえば?」
「気軽に血糊の入った風船をぶつけられる」
答えを聞いて、ルチアは笑った。はっと鼻で笑い飛ばした。
レオも口元をきゅっと引き上げるような笑い方を見せた。
それから彼はルチアの頭を小突いた。ルチアはほとんど撫でられてるみたいに感じた。優しい仕草が、偽物のその仕草が胸に突き刺さる。
ルチアは血糊風船を一つ選んで立ち上がり、怯えきった『死体役』に向き直った。
「前みたいな演技じゃ、絶対に許さないよ」
そう冷たく言い放って、まずは血糊の仕込みのために、『死体役』の顎を掴んで顔を上げさせた。
さあ、偽物を本物に見せかけよう。
安全な場所で『本物』の血を求めるやつらを騙して、その目を眩ませ、心臓をどきどきさせてやろう。需要があるから供給するのだ。高値で買う悪党がいるから売りさばけるのだ。
まだ見ぬ顧客を怖がらせるのが、ルチアの今の仕事だ。
そう思うと、ルチアの胸も少しは痛みを忘れられた。
甘ったるいチョコレート・シロップの詰まった風船は、ルチアの手の中で破られるのを待っている。
おわり