岩と岩の間をちょろちょろと流れていたせせらぎが、幾筋も集まって急峻な小川となっている。
それもいつしか他の流れと合流し、雄大な大河となって平野を横切っていくのだろう。
ロリロナは川縁の岩に腰掛け、小川が小枝や木の葉を巻き込みながら流れていくさまを見ていた。
名も知らぬ水鳥が片脚立ちで川の中程に陣取り、羽虫が耳元で唸りを上げ、魚が跳ねる。
太陽は西の空にまだ明るく輝き、空は晴れて、昼過ぎまで降っていた雨の気配は遠ざかった。
穏やかな初夏の午後。
ロリロナは無性に腹が立って、手近にあった石を川面に投げた。
鳥が素早く飛び立ち、対岸のマツ林に消えていった。
***
そこは都市部から離れた、山の中だった。
かつて《学園》を出奔した魔術師が、この山中に山小屋を建て、ひっそりと暮らしていた。
ただ派閥争いに疲れて逃げただけのその魔術師は、特に誰に迷惑をかけるでもなく、山小屋で魔術の研究を細々と続け、時折麓の村に降り薬を作ったり怪我を治したり、あるいはシカの角やキツネの毛皮、珍しい薬の材料となる野草を売ったりして生計を立てていた。
《学園》は彼の居所を把握していたが、害なしと見て放置していた。
で、その魔術師が死んだ。
《学園》は彼の遺した研究を回収すべく、人を派遣した。
それがロリロナであり、後ろで炊事をしているゼストガだ。
二人とも《学園》の正魔術師で、ロリロナは内部調査局、ゼストガは魔導書調査委員会の所属である。
山小屋の魔術師がかの《グリーンワードの魔導書》の研究も続けていたという情報が得られたのは、彼の死後のことだった。
魔導書調査委員会は魔導書絡みならば我々の出番だと、内部調査局の調査チームが出発する直前に無理矢理人員をねじ込んで、合同チームにしてしまった。
調査委員会の長であるグレイビルは相変わらずの剛腕を振るったわけだ。
そして合同チームは一週間前に《学園》を出発し、麓の村で準備を整え、今日からこの山に入った。
***
「なんでこんなところでこんなやつと二人で……」
ぶつぶつとロリロナは文句を言い、再び石を投げた。
ぼちゃんという音が空しい。
「ほらほら、恨み言はその辺にして、こちらを手伝ってくださいよ」
ゼストガは誰にでも、たとえ年下のロリロナ相手にでも丁寧な言葉遣いを変えない。
ロリロナは勢いよく身体ごと振り返ってゼストガを睨みつけた。
「あんたとままごとする趣味はないわ!」
「ままごとって……食べないで山登るんですか?」
「パン切って終わりでいいでしょ! 何ちんたらやってんのよ面倒臭い!」
「僕はロリロナさんと違って文化的な生活が身についているんですよ」
綺麗な銀髪を肩に届くまで伸ばした色男が、はは、と爽やかに笑う。
まだ二十代前半のはずだが、魔導書調査委員会の若きエースだ。
手には魚を刺した串を持っている。
「こんなところで料理するなんて神経おかしいんじゃないの? もう少し登れば山小屋なのよ。貴重な研究成果を持ち帰れるのに!」
「ダメですよ。ここは魔術師には魔力が強すぎます。身体を慣らさないと」
出奔した魔術師が籠もった山には、局地的に強い〈夜〉魔力で満ちていた。
なんでも大昔の戦争だかなんだかのせいらしい。
おかげでチームのリーダーは山に入った時点でばったり倒れてしまったので、麓の村に置いてきた。
「山小屋に住んでたっていう魔術師は平気だったんでしょ。アタシだって大丈夫よ」
「たぶん体質的に魔力の変化に鈍いか、時間をかけて身体を慣らしたんですよ。ロリロナさんだって、いつもより疲労を感じているはずでは?」
「でも他の組織だって研究成果を狙ってるって聞いたわよ。だからこそ、リーダーの回復を待たずにアタシたちだけで山小屋目指すんでしょ」
「だからって急ぎすぎてもいいことはありません。他の組織が山に入るなら麓の村を経由しなくてはいけませんし、先行はされてませんからまだ大丈夫ですよ。あちらが無理をしても、脱落者続出で辿り付けるかどうかも怪しい」
そういうわけで、とゼストガは輝くような笑顔で付け加えた。
「一晩ここで過ごして、まずは環境に自分を慣らすことです。ロリロナさんには特に期待してませんけど、水汲みくらいはできますよね?」
「……!」
ロリロナは差し出された鍋を奪い取るように受け取った。
***
ゼストガは、野営に慣れているようだった。
二本の棒と布と紐で器用に三角のテントを張ったかと思うと、川に入って川魚をナイフ一本で数匹獲っていた。
今は口から串を刺した魚を、火の周りの地面に突き刺している。
勿論火興しもゼストガがやった。
手際の良さに、半ば呆れて眺めていると、自然と問いが口をついて出た。
「……《学園》の魔術師は魚も獲れるもんなの?」
「いえ? というか、これくらい普通子どもの頃にやりませんか?」
「やんないわよ。あたしが育った場所はどぶ川しかなかったもの、魚なんて見なかったわ」
「ああ、僕は割と郊外で育ったもので。こうやって遊びながら腹の足しにしたもんですよ」
「……何不自由なく育てられたお屋敷育ちの坊やじゃないの?」
ロリロナはゼストガの母を知っている。まだロリロナが《学園》と敵対していた頃、ゼストガらに近づくためにその母を騙したのだ。ゼストガの母は、家名を誇りにしている、いかにもな貴婦人だった。
「あれ、そんなに育ちの良さが滲み出ちゃってました?」
「誰もそんなこと言ってないわよ」
「まあお屋敷育ちは合ってますけど、別に裕福ではなかったので」
笑いながらそんなふうに言って、また一本串を地面に突き刺す。
ゼストガは魔導書調査委員会だ。仕事柄、学外に出ることも多い。任務中、こんなふうに野外で過ごすこともあったのだろう。
ロリロナは、これが初めての任務だった。
ゼストガの髪が垂れて、魚に触れそうになったのを見とがめて、ロリロナが眉をひそめた。
「ちょっと、汚いわね。ごはんに髪の毛つくじゃない」
「この大自然の中で僕の髪の毛がそこまで気になりますか?」
そういう問題じゃない、と言いかけて、ロリロナはふと思いついて立ち上がった。
「髪まとめてあげる」
背後に回って髪の毛に触れると、ゼストガがびくりと身じろぎして頭を動かした。
「あの、ちょっと……」
「髪の毛が汚れるでしょ。ほら、頭動かさないで」
「はあ……」
ゼストガは渋々といった様子で前を向いて、焚き火を枝で突いている。
ロリロナは手際よく髪を結っていく。
今はゼストガより短いくらいに切ってしまったが、元々彼女は長く伸ばしていた。
久々に髪をいじるのは楽しいし、少しは自分にもできることがあるのが嬉しい。
仕上げに折角なのでリボンを蝶々結びにしてやる。
「終わりました?」
「いい出来よ」
ロリロナがにやにや笑ったせいで、不審に思ったのか、ゼストガは自分の後頭部に手を当て髪の毛を触った。途端に眉をしかめる。
「えっ、これ編み込んでるんですか?」
「頑張っちゃったわ」
「やめてくださいよ、恥ずかしい。取りますからね……ん、ちょっと、これ結び目が見えなくてよくわからないんですが……」
「髪の毛と一緒にリボンも編み込んだから簡単には外れないわよ」
「!? ちょっと、外してください!」
「どうして?」
「恥ずかしいじゃないですか、男がリボンつけて編み込みしてるなんて!」
「いいじゃない、誰も見てないし」
「誰もって……そりゃそうですけど、僕の好みの問題として……」
「あら、髪の毛が汚れることもないし実用的でしょ」
「だからって編み込まなくても……」
言いかけて、諦めたのか、ゼストガは大きく溜息を吐いた。
「もういいです。わかりましたよ、ありがたくこのままにしておきますよ」
ふてくされたようすで、だが髪の毛をやはり気にしたようすで、ちらちらと後ろを見ながら、ロリロナに確認してきた。
「似合ってます?」
ロリロナは堪えきれずに声を立てて笑った。
腹を抱えて、ひいひいと苦しそうに呼吸する彼女を眺めて、ゼストガは呟く。
「他に誰もいないとそんなふうに笑うんですね」
「え?」
ロリロナは笑い過ぎて出て来た涙を拭って、ゼストガを見やる。
銀髪を綺麗に編み込まれてリボンで飾られた男が、火のそばで呆れたような笑みを浮かべていた。
「誰かさんみたいな馬鹿笑いですね」
「…………」
誰かさん、と言われて頭に浮かんだのは同年代の女魔術師だ。
金髪を長く伸ばした、底抜けに馬鹿な子。
彼女のことを思うと憎悪と嫉妬で心がかき乱されることもあったが、年月を経た今はむしろ当時の自分を思い出してしまって息が詰まる。
罪悪感とか、自分が間違っていたとか、そんな単純な話じゃない。
言葉にできない思いがありすぎて、まだもてあましている。
一生掛けても、消化できるかどうかわからない。
あの頃ロリロナは、飢えていたのだ。ものすごく。
何か言い返してやりたくなったが、ロリロナが口を開く前に、ゼストガが魚を差し出してきた。
よく焼けて、脂がじゅうじゅういっている。
なんて名前の魚か知らないが、焼ける前は白い斑点の散った背中が綺麗だった。
今はかっと開いた口から串を突き刺されて、ところどころ焦げ目がついて、グロテスクと言うべきか、美味しそうと言うべきか。
「とりあえず食べましょう」
「……まあ、そうね」
空腹には抗えない。
ロリロナは魚の串を受け取ると、どう食べたらいいものか悩んだあと、背中側から囓り付いた。
身は淡泊で、皮はぱりぱり。
唇に触れる塩っ気がちょうどいい。
川魚らしい臭みというか風味というかもちょっとある。苔臭さとでもいうのだろうか。それも悪くない。
しばらく黙々と食べていると――何しろ串のまま食べるなんて初めてだからどう食べたらいいのかわからなくて一生懸命になってしまっていた――ゼストガの視線に気付いて、ばつの悪い思いをする。
「ふん。焼いた魚で何が文化的よ。まあ、子どものおやつにしては豪勢だとは思うけど」
そう言われて、何故かゼストガは嬉しそうに笑った。
「お口に合ったようで何よりです。パン切りますけど、チーズ載せます?」
「の、載せて……」
魚をちょうど食べ終わる頃、串に刺して焼いたチーズをパンに擦りつけるようにしたものを渡される。
チーズが熱くて、とろとろで、火傷しそうになりながら必死で食べる。
乾いて固いパンが、溶けたチーズのおかげでごちそうだ。
「おおおいしい……」
思わず声が漏れて、急にロリロナは我に返って恥ずかしくなった。
幼い頃、ロリロナはろくに食べられなかった。
寒いのも辛いが、食べられないのが何より辛かった。
気力がなくなってしまって、最後は立ち上がることもできなくなった。
色々あって食事に困ることがなくなってからも、食事にがっつくことがないよう自分なりに気を付けてきた。
そういうところを見せれば、馬鹿にされる気がしたのだ。
ろくに食べられなかった育ちの悪い子だと、そう見られる気がして。
(そういえば、《学園》に来たばかりの頃はハンストしてたんだ)
むしろ食べないことが誇り高い、そんな気がしていた。
あの頃の自分が囁く――これはダメだ。良くないことだ、と。
手が止まる。
チーズの溶けたパンをじっと見つめる。
口の中が乾いて、唾さえうまく飲み込めない。
ゼストガは自分の分もチーズ載せパンを作り、それを頬張って、暗くなり始めた空を見上げた。
ちらっとロリロナを見て、訳知り顔でうそぶく。
「いいじゃないですか、誰もいないんですから、素直になれば」
「…………あんたがいるでしょ」
そう言い返しながらも、ロリロナも空を見上げる。
空は高く、青みを増し、早くも月と星が現れていた。
どぶ川のそばで見上げた空とも、《学園》で見上げる空とも、違って見えた。炊事の煙が真っ直ぐに伸びている。
見とれるうちに、気分が穏やかになってきた。
ロリロナはまた一口パンに囓り付き、垂れるチーズを慌てて指で掬って口に入れた。
焚き火の爆ぜる音に混じって、フクロウの鳴き声が聞こえてきた。
***
翌日、ロリロナたちは山小屋で研究成果を急いで拾い集め、日が暮れる前に山を下りた。 結局研究成果がどんなものだったのか、末端のロリロナは詳しく知らされなかった。
情報はおそらく相応しい研究者に渡され、研究のたしになったと思うし、それ以上の興味はなかった。
その後ロリロナは《学園》の正魔術師として色々な任務についた。
仕事柄、ゼストガほど学外に出る機会があったわけではなかったが、何度かは任務中に野営することになったし、火であぶったチーズを載せたパンも食べた。
あの日ゼストガに作ってもらったものほど美味しいものは作れなかった。
それでも、一人でかび臭いぱさつくパンをかじりながら過ごす夜が、そうしながらゼストガのパンとチーズと魚を思い出す夜が、彼女は結構好きだったし、そうやって夜空でも見上げていると、心がどんなに乱れていても、不思議と落ち着くのだった。
そういう時、決まって、彼女はそれをゼストガではなく夜空のせいにした。
おわり