前回までのあらすじ
なんやかんやあって《学園》を出奔したリティーヤとヤムセは、トラリズ家の逃がし屋親子の協力により南方大陸行きの船に乗る。しかし客室には南方大陸から連れてこられた貴重な固有種ミナミウミネズミがいた。なんとかして下船までにミナミウミネズミを捕まえて船外に逃がしてやろうとするが、リティーヤも悩みを抱えており……!?
中編
かつて北方大陸は大寒波に襲われた。急激な寒冷化によって起こった政治的混乱、歴史的不作、そして大不況は、北方大陸の人々を南へと向かわせた。南方大陸は温暖で、政治的にも安定していた。その上人類発祥の地とも言われていたから、追い詰められた末の悲惨な南下にも、祖先の土地に帰るというロマンスが添加された。
大寒波直後の数年ほどではないが、今も南への移住を目指し、船に乗る人々がいる。交易のため、船を出す船主もいる。
定期船が人々と物を運ぶ。古い時代なら北からは毛皮、南からは酒や工芸品。大寒波後の食糧危機では南から北へ穀物の輸出が急増した。
ただ、いくつかの国は禁制品を指定して、特定の品の流出を抑えている。
その一つが、リティーヤらの部屋にいるミナミウミネズミだ。
銀色の毛並みに黒い双眸。小さな身体を水の中で滑らかに動かして、水面に顔を出す。
眺めていたリティーヤを見て身を翻すと、尻尾を敏捷に動かし、リティーヤの顔面に水をかけた。
「ぐぺっ」
ぽかんと口を開けていたリティーヤはもろに口に水を入れてしまい、咳き込んだ。
「早く顔を洗え」
ミナミウミネズミのために朝食から果物を取り分けながら、ヤムセは迷惑そうな顔でそう言った。別に彼は何の迷惑も被っていないのに。
「う~ん、可愛いんだけどなあ、船から出してあげたいなあ……」
小さな洗面台で顔を洗ったリティーヤは、ぶつぶつ言いながらタオルで顔を拭いた。
ミナミウミネズミのような珍しい南方固有種は北方人たちの興味を引くに十分だ。金持ち相手に高値で売りさばこうとした人間がいたのだろう――まあ、船室から連れ出せなかったのでその計画も水の泡に帰したわけだが。
きっと、南方に渡ろうという人間にはそういう一攫千金をもくろむ人間もいるのだろう。また、ただ未知の土地に自ら踏み出そうという冒険心豊かな移住希望者は名家の跡取りにも農家の末っ子にもいるだろう。中には金を払えない密航者もいるかもしれないし、リティーヤたちのような逃亡者もいるはずだ。家族が南方にいる者もいるかもしれない。商売や移住や調査や娯楽、そしてそれ以外のあらゆる目的のため、人々は二週間船に乗って、別の法則が支配する世界へと踏み込むのだ。
人間たちの思惑に振り回されて、この小動物はさぞ迷惑なことだろう。
なんとかして捕まえて、南方大陸に戻してやりたい。狭い部屋を逃げ回りたらいの水に浸かるだけでは、身体にも悪そうだ。
リティーヤ自身客室の外が恋しかったから、自分と重ねて余計に同情してしまう。
何しろ、《学園》関係者がどこにいるとも限らない。ヤムセは魔術師の間ではそこそこ顔が知れているし、その彼が金髪の学生を連れて逃げたという情報もすでに一部に広まっている。船の客にも船員にも直接《学園》と関係のある者がいないのは確認済みだが、密かな取引相手になっている場合だってあるだろう。そういった人間が《学園》にリティーヤらの情報を売って何らかの有利な条件を引き出そうとする可能性を否定はできない。だからリティーヤらは人目を避けて船に乗り込んだし、航海中も極力客室にとどまる予定だ。
バスルームの利用時に散歩がてらちょっと遠回りするぐらいで、船内の探検も出来ていないのが勿体ない。恨めしい気持ちでドアを眺める。
ドアの隙間から白い封筒が差し込まれていた。
「……お?」
拾い上げると、表にも裏にも何も書かれていない。
だが、封筒を開けて中を覗こうとすると、ヤムセに身体を押されて横にどかされた。文句を言う間も与えず、ヤムセはドアを開けて素早く廊下の左右を確認し、すぐにまた静かにドアを閉める。
「素早いやつだ」
ヤムセがそう呟いた。おそらく、この手紙の差出人のことだ。
リティーヤは改めて封筒を開けて中身を確認した。ハンカチで挟むようにして引っ張り出したのは、一枚のカードだ。
「晩餐会にて待つ」
リティーヤは文面を読み上げた。それだけしか書かれていない。差出人の名前さえない。鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「ん、何か……こう、甘い匂いがしますね。香料? とかの……」
「不用意に顔を近づけるな、どんな毒物が仕込まれているかもわからないんだぞ」
ヤムセがそう言ってハンカチごとカードを取り上げる。
「用心したからちゃんとハンカチ使って取り出したんですよ」
「用心しているなら鼻を近づけるな」
そう言ってから、ヤムセは眉を顰めた。
「確かに甘い匂いがするな」
ヤムセは鼻を近づけはしないものの匂いを嗅いで、しばらく考え込んだ末に、ふと呟いた。
「《ラガロの飴》だ」
「ん? お菓子の話してます?」
「薬物の名前で、結社の名前でもある」
「薬物!?」
リティーヤは怯えた顔でカードからできる限り離れた。
「これは残り香程度だ。嗅いだ程度で影響はない。それに彼らはこれを毒薬としてではなく幻覚剤の一種として自身で服用する」
《学園》ではそういったことはないが、神秘主義の結社などでは薬物を用いて魔術の効果を高めるようなことはある。リティーヤはまだ距離を取ったまま、興味深くカードを眺めた。
「その《ラガロの飴》っていう結社はどういう組織なんですか?」
「元々は市や祭りに合わせて放浪する菓子職人たちの相互扶助的な結社だ。そのうち神秘主義を取り入れ、独自の魔術と思想を伝えていくようになった」
「ふむふむ……今は?」
「先鋭化して、最終的に他の組織に壊滅された。その頃にはもう菓子職人はただの隠れ蓑になっていた。構成員はこの幻覚剤を常用していたから、匂いが鼻についてすぐにわかったが」
「ふーん……」
と相槌を打ってから、リティーヤは、ん、と小首を傾げた。金髪がさらりと顔にかかったのをはねのけて、ヤムセを見やる。
「今の言い方って……」
ヤムセは一瞬目を合わせたが、すぐにまた視線をカードに向けた。いつも思うのだが、彼の横顔は狼を思わせる。美しく鋭い目が面白くもなさそうにカードを観察している。
「おそらく、晩餐会ならこちらが周囲を巻き込むことを恐れて魔術を使えないとでも思っているのだろう。対してあちらは周りの人間を人質に取れる」
「うん……あの、先生? さっきの言い方だと、まるで先生がその場にいたみたいに聞こえるんですけど?」
ヤムセはもう一度リティーヤと目を合わせた。彼の目の奥は深く暗く、どこか沼のようにも見えた。
「……だからなんだ?」
「先生に壊滅された組織の生き残りさんがいて、先生をこの船内で見つけたから殺そうと呼び出したって認識で合ってます?」
リティーヤはヤムセの目を負けずににらみ返してそう言った。何しろ、予想の通りだとすると、今自分は完全に彼に巻き込まれているので。
「…………」
ヤムセはしばらくの間彼女の視線を受け止めて見つめ返していた。ヤムセが何を考えているのか、リティーヤにはわからなかった。何か思案しているようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。今でさえリティーヤはしばしば彼のことがわからなくなる。こうしてともにいることを選んだ今でさえ。
「リティーヤ」
ヤムセは突然名前を呼んで、リティーヤの肩にかかっていた髪の一房を手に取った。その毛先を指でもてあそびながら、彼は言った。
「夜会用の髪型はできるか?」
「……え?」
予想しない発言だったので、リティーヤは思わず素直に聞き返した。それから彼の言葉の意味を理解して、地味な衣服を身につけた自分の身体を見下ろし、ワードローブを振り返る。あの夜空のような濃紺のドレス。嬉しいような気持ちが湧き上がるが、同時に以前あの手のドレスを着た時の思い出も蘇る――食事もろくにできないくらい身体を締め付けられたのだ。
「今回は動けるように着付ける」
リティーヤの内心を察したのか、ヤムセがそう言った。
ならば、まあ、いいか。
幾分ほっとして、リティーヤはヤムセに視線を戻して答えた。
「夜会用の髪型は自分でやったことないですけどドレス着ちゃえば髪型はなんとでもなるんじゃないですかね!?」
「……いや、ならんだろう……」
信じられないものを見るような目で見て、ヤムセは諦観を滲ませて言った。
「わかった。おまえの髪は私がやる」
「はい、えっ、できるんですか?」
「姉の付き人をやらされたことがある。その時覚えた」
ヤムセはリティーヤの視線に気付いて、眉を顰めた。
「あまり期待するなよ」
こくこくとリティーヤは頷いた。期待の眼差しを受けて、ヤムセは舌打ちしそうな顔で餌の準備に戻った。
リティーヤはそっとワードローブの扉を開けた。そこにはあの濃紺のシルクのドレスが収められている。そわそわしてしまって一度扉を閉じ、もう一度開ける。思い切ってドレスを手に取って自分の身体に沿わせてみた。ワードローブの扉は内側が身鏡になっている。その鏡を覗き込むと、少し紅潮した顔の自分がドレスをあてがったところが見えた。
以前着た時は、ドレスに着られているようで、身動きもしにくくて、あまり嬉しくなかった。今度はどうかなと想像してみる。少しは似合うと良いのだが。それに、何より――。
「やっと外に出られる~!」
短時間の所用以外、もう一週間もここに閉じこもっているのだ。手足を伸ばして歩いて晩餐会に出て、冷めていない料理をたらふく食べたい……と思っていたら、ヤムセに睨まれた。
「気分転換に行くわけではない」
「わ……わかってますよ、人質取られたり危険があったりするんでしょ? でも、いい加減閉じこもって勉強ばっかりじゃ煮詰まってきてですね……ほら、しまいますよ、もう……心が狭い……」
リティーヤがぶつぶつ言いながらドレスを戻そうとワードローブを開けると、水音が聞こえた。見やると、テーブルの下に置かれたボウルの中から、ミナミウミウネズミが出てきて、毛繕いを始めた。リティーヤのすぐそばだ。
ミナミウミネズミがこれまでになく近くにいて、リティーヤは驚いてしゃがみ込み、その拍子にドレスをボウルの水で濡らしそうになった。慌ててドレスを持ち上げて後ずさった時、バランスを崩してヤムセの身体にぶつかった。ヤムセの腕がリティーヤの身体を支えてくれたが、リティーヤはヤムセを見上げて、あのキスの距離を思い出し、ひぅ、と息を呑んでしまう。ヤムセは先程よりさらに不服そうな顔で身体を離した。そうすると当然リティーヤの身体は支えを失い、狭い船室でバランスを崩してワードローブの扉に背中を強かに打ち付けた。
「いっ……」
痛みに呻いていると、ヤムセはいつの間にかリティーヤの抱えていたドレスを手に持っており、ワードローブの扉を開けて中にしまい込んだ。ちなみに彼が扉を開けた際、その扉がまたしてもリティーヤの背中を強打したが、ヤムセは謝りもしなかった。
「せ、先生~!」
「茶が冷める」
ヤムセはそう言ってティーポットを手に取った。研究室では新入りのリティーヤがお茶を淹れていたものだったが、船内ではもう注ぐだけの状態になって出てくるので特製ブレンドを試す機会がない。それがリティーヤには少し残念だった。
謝ってもらうことは諦めて、リティーヤは二人分の皿の砂糖を自分のティーカップに全部入れて素早く飲んだ。ヤムセが愕然とした顔で、砂糖の皿に手を伸ばしたところで固まっている。給仕される砂糖は限られていて、ヤムセとしてはそうでなくとも物足りないのだ。
「船が着いたらまたあたしがお茶入れられますねえ」
嬉しそうに語るリティーヤを前にして、ヤムセは渋面で甘くない茶を飲んだ。
この手のドレスは腰を締め付けるだけ締め付けて着るものだ。内部から木やワイヤーを組んで臀部の膨らみを作り出し、女性らしいラインを強調する。とはいえ今回は戦いになることが想定されたので、締め付けはほどほどに、動きやすさを重視して着付けてもらった。
イブニングドレスのため、首周りは広く開く。リティーヤはそのままで気にしていなかったが、ヤムセが荷物から綺麗な布張りの箱を取り出した。
箱の中も布張りで、真珠と宝石からなるイヤリングとネックレスが収まっている。
「死んだ身内のだが、何もないよりはマシだろう」
リティーヤはその煌びやかな輝きを唖然として見つめ、それからヤムセの言葉でさらに驚愕した。
「いや、えっ、あたしが着けるんですか!? でも、か……形見ですよね? これをあたしがお借りしていいんですか?」
ヤムセは何故か眉間の皺をいっそう深くしてリティーヤを見やった。どうやら呆れているらしい。
「おまえが使えないなら他の誰も使えないだろうが」
「そうですかね……?」
「とにかくこれはおまえのものだ」
「えっ! いや、借りるのももったいないくらいなのに、もらうなんてできませんよ!」
ヤムセは面倒臭そうにリティーヤを見下ろしていたが、急に肩を摑んで反転させると、後ろからリティーヤの首にネックレスを着けた。しっかりとした重みがある。金属と石の塊は冷たいのかと思ったがそうでもなく、ヤムセの手の温もりを感じた。真珠が揺れるイヤリングもその流れのまま着けられた。
「…………」
ワードローブの扉に造り付けられた鏡を、まじまじと見る。顔には化粧を施し、髪は綺麗に梳いて結い上げられ、ドレスも身体によく合っている。ブローシズは目測だけでどうやってここまで正確なサイズを割り出したのだろうか。
そして首元には、オーバルカットの宝石を中心に配したネックレスが輝く。二連になった真珠はどれも素晴らしい輝きだ。多くの小さなビジューで囲まれた中心の宝石はリティーヤが初めて見るもので、深い湖に張る氷を思わせる、淡く透明な水色をしていた。
「これ……なんて石なんですか?」
ヤムセは問いの答えを考えるように鏡に映ったリティーヤを見つめた後、不意に目を逸らした。
「今度教える」
「えっなんで?」
「今教えたら突っ返してきそうだ」
「そっ……ちょっとまさかすごく希少性の高いものなのでは……!?」
うろたえるリティーヤの後ろで、ヤムセは極めて事務的な目でドレスや髪の状態を確認し、頷いた。
「準備はいいな」
そう言うヤムセの方も髪を撫で付けてテイルコートを着込んでいる。リティーヤは振り返って彼の様子を改めて見つめ、呟いた。
「目立ちそう……」
何しろヤムセは見てくれがいい。長身で体格も良く、所作まで美しい。どこの貴族か有力者かと噂になるような外見なのだ。
だが、ヤムセはこれ以上ないくらいうんざりした顔をしている。
「なんて顔してるんですか」
「ホワイトタイは好きじゃない」
なんでもできそうなヤムセだが、苦手なものもあるのをリティーヤはもう知っている。知ってはいるが、やはりこうしてまた一つ新しい苦手を知ると、なんだか嬉しくなって微笑んでしまう。
ぞっとするような目で睨まれて、リティーヤは咳払いをして笑顔を隠した。
上層の客が集う大食堂は、なかなかに立派なものだった。
高い天井の下、毛足の長い絨毯が敷き詰められた大食堂には優美な造りの家具が並び、正装した男女が行き交う。純白のクロスの上には上等な食器が並び、掲げられたフルートグラスの輝きが美しい。
大きな客船は客室のランクごとに食堂もフロアも異なって、趣向を凝らしたレストランやカフェを幾つも備えているものだが、この船はそこまで大きくはなく、客用の食堂は二つだけだ。たぶんリティーヤとしては下層の食堂の方が居心地が良さそうなのだが、指定されたのはこちらの晩餐会だ。
すんとリティーヤは空気を吸い込んだ。
様々な香水と髪油の匂い、本日の前菜に数種類の酒の匂い。
揺れは感じるが、それがなければここが海の中だということを忘れそうだった。
ヤムセの話によれば、《学園》との戦いの結果《ラガロの飴》の組織は瓦解したが、構成員の一部は行方不明で、地下に潜伏していると考えられているそうだ。
「だが、強力な魔術師はもういないだろう。潜伏した連中をまとめていたリーダーがいたが、すでに取り巻きと共に古王国の牢の中だ」
案内されたテーブルで、リティーヤはヤムセから《ラガロの飴》についての説明を受けていた。
「牢の中って……その人たち、何やったんですか?」
「寒冷化による滅亡こそ救いだと主張して他の魔術師組織を襲撃した」
「ええ……」
《学園》はじめ、多くの魔術師組織は寒冷化の謎を解くことを目的としてきた。『寒冷化による滅亡こそが救い』という信念に従うのなら、ほとんどの魔術師組織や政府と敵対することになるだろう。
「古王国と《学園》で連携して対処した。さっきも言った通り主要構成員は捕縛されているが、下っ端全員を把握しているわけではない」
「はあ……じゃあ結局顔見てもわかんないかもしれないんですね……」
「そうなる」
だが、いったいどうやってこの船に乗っていることがばれたのだろう。乗船前から目を付けられていたのか? 偶然か、それとも誰かに売られたのか?
「……トラリズ家は客を売ったりしないですよねえ」
「そんなことをしたら信用を失うからな。《ラガロの飴》の狙いが私だとすると、我々と同じく北方から逃げて南方へ行く航海の途上で、たまたま我々を姿を見かけて敵討ちを画策した、と考えられる」
「いや、狙いが私だとすると~じゃないですよ、どう考えても狙いは先生ですよ」
バスルームの利用などで客室の外に出ることはある。同じ船に乗っていれば、偶然見つかってしまうこともあるだろう。
「先生が目立つから……」
「見つかる時は見つかるものだ。それに、別に私が狙いとは限らない」
「え~……あっ、あたしとか!?」
「いや、おまえの希少性はもう大してない」
ヤムセはあっさりと否定した。これはその通りで、北方世界にも〈昼〉魔力が戻りつつある現在、リティーヤをあえて狙おうという組織はあまりないだろう。だいたいリティーヤの希少性が高かったら《学園》がもっとしっかり追っ手をかけている。
「う~ん……希少性、というのなら、ミナミウミナズミとか」
口にしてから、リティーヤは首を傾げた。
「あ、これから南に行くんだから、希少ではなくなるのか……南方大陸にはいるんですもんね」
「そう……普通の個体ならな」
「うん?」
そこで前菜が運ばれてきて、リティーヤは一旦口を噤んだ。さすがに上層の晩餐会は食事も上等だ。しかし命を狙われている状況ではさすがに手を付けるのも恐ろしく、ヤムセをちらりと見やった。
ヤムセは運ばれてきた前菜を躊躇無く食べ始めている。
「えっ……あの、見張ってなくていいんですか?」
リティーヤは両開きの大扉を見やってそう尋ねた。まだ新しく入っている客がいて、食堂は随分賑わっている。その賑わいが怖い。いつ無関係な客や乗組員が人質に取られるか、いつ客だと思っていた人物が襲ってくるかわからないのだ。
「見張っている。この食堂全体に《流れ》魔力を張り巡らせている。薄く引き伸ばして」
そうだったの? とリティーヤは目を閉じて意識を集中してみた。大勢の人間の気配や、海というあまりに巨大な《流れ》魔力によって、か細い魔力の気配は押しやられてしまう。言われてみればそうかなあ……? くらいのものだ。
よくわからないまま、リティーヤはぱっと目を開けてさらに尋ねた。
「じゃあ、食べ物に毒を入れられたりは?」
「ここの給仕はトラリズ親子の息がかかった人間に依頼してある。我々の部屋に毎食食事を運んでいる人間と同じだ。もしこちらを裏切って毒を入れるにしても、わざわざ今入れる必然性は薄い。それに大抵の毒なら魔術で中和できる」
「え~、即効性のやつだったらどうするんです? 魔術使ってる暇もないかも」
「私は効きにくいから大丈夫だ」
「……あたしは?」
「?」
ヤムセはグラスを手にして訝しげな目でリティーヤを見た。
「いや、ほら……あたし、即効性の毒飲んだら死ぬんじゃないですかね、治療前に」
「…………」
ヤムセは水を一口飲んだ。少し考えた末に、まあ……と呟いた。
「大丈夫なんじゃないか? たぶん……」
「たぶんじゃないですよ!? 命狙われてるの先生なのにどうしてあたしの方が死にそうなんですか!」
「じゃあ食べなければいいだろう」
「おなか空いているんですよお!」
リティーヤは、ううっ、と嘆きの声を上げた。目の前には薄いクラッカーに塩漬けの魚や魚卵が載ったもの、レバーのパテなどが綺麗に盛り付けられている。部屋に食事は運んでもらっていたが、トレーやワゴンに載せるため一皿か二皿の簡単な盛り合わせであることが多く、こんなに品数は多くない。
どんな味がするのかな~と気になってフォークで突いてみた。
「私を差し置いておまえだけを狙う理由もあるまい。それにやつらは食品への毒物の混入は嫌っていたはずだ」
「え? 自分たちは幻覚剤使うのにですか?」
「生業が生業だからだろう」
そういえば、菓子職人の組合から始まった組織なのだった。今となっては製菓は本業とはいえないだろうが、食品への毒物の使用は理念的に受け入れがたいことなのかもしれない。
「そっか! なら食べてもいいのかな」
リティーヤはぱっとクラッカーを手に取って口に放り込んだ。美味しいとご機嫌のリティーヤを眺め、ヤムセはまたグラスを持ち上げ――そこで彼は広い食堂の一点を見てグラスを置いた。何かあったのかとリティーヤも彼の視線を追うが、給仕たちが行き交い、彼が何を見ているのかはよくわからない。
「どうしましたか?」
「……ゆっくり食べてろ」
ヤムセはそう言って、やけに物憂い顔で重い溜息を吐いた。まるで深い悩みでもあるかのような様子だったが、何しろ眉間の皺が常態化している人なので、リティーヤは、デザートが好みのやつじゃなかったのかな、くらいに考えた。
料理が次々に運ばれてきて、リティーヤはもうこれ以上は食べられないなという一線を三回は超えた。とはいえ残すなんて勿体ないことはしたくなくて頑張ったのだが、ついにデザートの皿で限界を迎えて、手つかずのデザートプレートをヤムセの方に押し出すはめになった。
「美味しかったけどもう無理です……」
「問題ない」
ヤムセはすでに自分の分は綺麗に食べ終えている。この分ならリティーヤの分のデザートも余裕で入るだろう。新しい皿を前にして、紅茶に好きなだけ砂糖をどぼどぼ投入して満足そうだ。魔術を使う時に糖分を消費するからというのがいつもの彼の言い分だ。
「……ん? 結局、《ラガロの飴》? の人は来てないですよね」
レモンケーキを頬張っていたヤムセは黙って頷いた。
「あれっ、今日、ここに来いってことですよね、あの手紙……」
リティーヤは襲撃者の存在を思い出しそわそわして、さりげなく周囲を見回した。
特に不審な動きをする人はいないように見える――。
その時、リティーヤの肩をぽんと叩く者がいた。
「!」
リティーヤは驚いて椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって振り向いた。いや、実際に倒れそうになった椅子が、後ろに立つ人物の足に当たった。
「気を付けろよ」
その人はそう言って、椅子を元の場所に戻した。
金髪を背中で三つ編みにした、若い男性だ。身につけているのは、おそらく古王国特務警察の儀礼服。黒地に金モールが映え、胸元にはずらりと勲章が並ぶ。帽子を小脇に抱えて姿勢よく立つ姿は、見知った相手とは思えなかった――が、確かにリティーヤのよく知る人物だった。
「おっ……お兄ちゃん……」
リティーヤにとってはほぼ三ヶ月ぶりとなる、兄ファルクロウとの再会だった。
ファルクロウは、眩しいものでも見るように、目を細めて妹を見つめた。
「元気にしていたか? リティーヤ」
「うんっ、えっ、でもどうしてお兄ちゃんがここに……」
「仕事だ。テロリストが乗船しているという情報が入ってな」
「テロリスト――……って、もしかして《ラガロの飴》の……」
「まあ、それはもう片付けた」
リティーヤは兄の言葉で襲撃がなかった理由を察した。リティーヤが気付く前に――おそらくは《ラガロの飴》が晩餐会の会場に入る前に、ファルクロウかその仲間たちが捕まえてしまったのだ。食事中にヤムセが何か勘づいたふうだったのも、このことだろう。浮かない顔だったのは、たぶんファルクロウがいたからだ。
「綺麗だぞ、リティーヤ。立派なレディだな」
「あ、ありがと……」
真っ正面から褒められて、リティーヤは恥ずかしくなって視線を逸らした。なんとなくドレスの表面を撫で付ける。シルクのするりとした肌触りが心地よい。
「どうせおまえの婚約者は褒めてないだろうが、似合ってるから安心しろ」
「うん、いや――婚約者って何?」
ファルクロウはリティーヤの問いには答えず、無言で帽子をテーブルに置くと、椅子を引いて座った。
「そこあたしの席……」
ファルクロウにどける気配はない。リティーヤは諦めて、その隣の椅子を引いて腰を下ろした。
ファルクロウが椅子の背もたれに体重を預け、椅子がぎしりと鳴った。白い手袋をはめた指を腹の上で組み、ヤムセを見据える。
「俺の大事な大事な妹をかっさらっていったんだ。婚約くらい当然してるよなあ、ヤムセ」
「そんな暇があったと思うか?」
ヤムセはティーカップを口元に運んだ。すでにリティーヤの分のデザートも綺麗に食べ尽くされている。
「暇の問題じゃない。誠意の問題だ。だいたい俺に一言の相談も報告もなしに事を進めやがって! 当主からおまえがリティーヤをかっさらったと聞いた俺の気持ちを想像したことがあったか!?」
「どんな気持ちだったの?」
リティーヤに興味津々で問われて、ファルクロウはしばし固く目を閉じた。眉間の皺をもみほぐすように手を当てる。
「それは――あれだ、やったな! というのと、やりやがったな! というのが入り混じってだな……複雑な気持ちだよ。そりゃな……わかってる、俺だってヤムセがどういう人間か少しはわかっているし、生半可な覚悟でこんなことしたとは思っていないさ。この船に乗っているということは南方大陸に行くんだろうし、それはそれで《学園》にいるよりリティーヤにとっても面白そうだ。悪くない選択肢だ」
「じゃあ、喜んでくれるの?」
ファルクロウはがばりと顔を上げた。
「そういうわけじゃない! 妹が指導教官と駆け落ちして喜ぶ兄がいるか!? だから複雑だと言っただろう! それにせめて婚約くらいしていて欲しかったんだよ!」
「うーん……婚約ってどうするの?」
「一般的には立会人の下、双方の意思を確認して指輪の交換だな。あとは信仰があればそれに基づく」
「指輪なんて用意ないよ」
ファルクロウにそう言ってから、リティーヤは自分の首にかかる石と金属の重みを思い出した。これは指輪ではないが、もしかしたらヤムセはそういうつもりでリティーヤに渡してくれたのでは……という考えがよぎる。
いやいやいや、でもな、先生だからな……と否定しつつも、リティーヤはちらりとヤムセを見やった。ヤムセはファルクロウに詰め寄られていた。
「じゃあまずせめて俺を立会人にして意思を表示だ!」
「話を勝手に進めるな」
「うるさいな! こっちはおまえを狙ってきたテロリストもふん捕まえてやったんだぞ! 婚約くらいとっとと――はっ、まさか……」
ファルクロウの目が見開かれた。信じがたいものを見るような目をヤムセに向ける。
「おいヤムセ……おまえまさかここまでしておいて責任も取らずに……」
「おまえが口を突っ込むと話がややこしくなる。リティーヤとは話しておくから今日は我々を帰らせろ」
「リティーヤ一人ならなんとでも言いくるめられるという魂胆か!? こっちは貴様がリティーヤと同室だってことも把握しているんだ。手を出しておいて貴様――」
「ちょっとお兄ちゃん! そういうんじゃないからっ」
このまま放っておくと際限なく話を酷い方向に持っていかれそうだったので、リティーヤは彼の腕を引いて止めようとした。
だが、ファルクロウは悲しげな目を妹に向けた。
「リティーヤ。こいつを庇うことはないぞ。お兄ちゃんがきっちり話をつけておいてやるからな」
「もう、誤解しないで。本当に何もされてないから」
「何もそんな嘘を――」
「……本当なんだってば」
リティーヤは苦虫を噛み潰したような顔で兄を睨んだ。耳まで赤くなってしまったと思う。ファルクロウは最初、訝しげな顔でリティーヤを見つめ、その顔をヤムセに向けた。妹の言葉が真実らしいとじわじわと理解したのか、彼はドン引きしたような声を漏らした。
「えっ……? 本気で……何も?」
ヤムセは先程のファルクロウ以上に深い皺を眉間に寄せて、その視線を受け止めた。
「教え子だぞ」
苦々しげに言われたその言葉に引っかかったのは、リティーヤだった。
「ちょっ……先生!? それはそれで聞き捨てならないんですけど!? 教え子って……そりゃ教え子ですけど、先生だってそういう……あのー、教え子じゃない対象としてあたしのこと好きですよね? 大丈夫ですよね?」
今度はリティーヤが黙っていられなかった。ファルクロウに、まあまあ、と宥められるが、それが余計に腹立たしい。
「お兄ちゃんは口出さないでよ! まさかとは思いますけど、先生、あたしにずーっと手を出さないつもりなんですか!?」
リティーヤからしたら一応これは駆け落ちなのだが、まさかヤムセの認識は違ったのか?
ヤムセは面倒臭そうな顔をして、リティーヤの方を見もせずにまた甘ったるい茶を飲んだ。
「だから言ったんだ。おまえが口を突っ込むとややこしくなると」
「いや……俺だっておまえにそんな倫理観があったとは思ってなかったから……」
「とにかく――」
ヤムセはティーカップをソーサーに置いた。
「もう出るぞ、リティーヤ」
そう言って彼は立ち上がった。
「先生っ、本当にあたしのこと――」
リティーヤも椅子を引いて立ち上がろうとするが、椅子の背をファルクロウがしっかり押さえ込んでいたために椅子が動かず立ち上がれない。
動きを制されふくれっ面のリティーヤに、ファルクロウは顔を寄せて言った。
「リティーヤ、いいか。俺の部屋は教えておく。あの男に嫌気が差したらいつでも俺を訪ねて来い」
「ファルクロウ」
いつの間にかヤムセがリティーヤの背後に回っていた。ファルクロウは大げさな仕草で椅子から手を離した。ヤムセはリティーヤの椅子を引いて、手を貸してくれる。
その後も何食わぬ顔でリティーヤをエスコートするので、リティーヤはかなりぎょっとしてしまった。
「珍しく優しいですね」
差し出されたヤムセの腕に手をかけたリティーヤが囁くように尋ねると、ヤムセは渋面を崩すことなく、目だけで周囲をちらりと見た。
「目立たない行動をしているだけだ。手を貸さねばおまえは転ぶか躓くに決まっている」
「む……素直に綺麗だから恋人らしいことしたくなったとか言ってくださいよ」
ヤムセの口元が緩んで、ふ、と笑い声が漏れた。
「ちょ……そういう態度、本当どうかと思いますよ!」
「何がだ」
「バカにしたみたいに笑ったじゃないですか」
「バカしたわけではない」
ではなんだというのだ。
リティーヤはますますむっとした。
会場を出る時に振り返ると、ファルクロウはまだ椅子に座って、こちらを見ていた。
目が合うと、彼はひらひらと手を振った。
部屋に戻ると、リティーヤは腰に手を当て、ヤムセを睨み付けた。
「先生、それでさっきの話なんですけど」
ヤムセはリティーヤに睨まれていることを意に介さず、室内を一瞥してから、どさりと椅子に腰を下ろした。リティーヤの方を見もせずに、苦手だというホワイトタイを襟元から引き抜く。
「少し落ち着け」
「どうしてですか!」
「手を出されたがっているように聞こえるぞ」
「は!?」
問い返し――ヤムセにじろりと視線を向けられ、ようやく彼の言葉の意味を理解した。
それと同時に顔に熱が集まるのを感じる。声にならない声を上げ、赤面したリティーヤを見て、ヤムセは心底面倒臭そうに嘆息した。
「座れ。話をする必要がある」
そう、対話は必要だ――この船室で二人で残り一週間ほどの時間を過ごすのだ。こんなぎくしゃくした状態では到底無理だ。
リティーヤは最初、ヤムセの座る椅子の向かいで、一人掛けの椅子に座ろうとした。
だが、それだと正面から彼に真っ赤になった顔を見られることに気付いて、ぎこちなく移動して、下の段のベッドにちょこんと腰掛けた。テーブルを挟んでいない分距離は近くなった。ちょうど、リティーヤがもう一人分程度が収まる空間が空く。
ヤムセはその空間と、リティーヤのまだ赤い顔と、手元のホワイトタイを順に眺めて言った。
「おまえが《学園》を離れたのは私のせいだ。まずはおまえをまともな魔術師として独り立ちさせるところまで育ててその責任を果たしたい」
別にリティーヤが《学園》を離れたのはリティーヤ自身の選択の結果で、あの時汽車を降りたからなのだが、ヤムセが責任を感じているのは、まあ、リティーヤもわかる。
「……おまえとの関係をどうこうするのはそれを終えてからだと思っている」
ヤムセに横顔を、というか赤く染まった首筋を見られているのを感じる。向かいの椅子に座った方が良かったのかなと今更思う。微妙なもう一人分の空間が、かえって気まずい。手を伸ばせば届く距離。
手を出されたがっているように聞こえる、とヤムセは言った。
たぶん、その通りなのだ。
リティーヤはあの時のキスを覚えているし、彼が自分を弟子としてではなく愛してくれていると知っている。リティーヤが彼に向ける感情も決して師に対するだけのものではない。
この、三ヶ月。
あのプラットフォームでキスをしてからの三ヶ月、リティーヤはたぶん次のキスを常に意識のどこかで待っていた。
「それ……は」
リティーヤはようやく声を絞り出した。ちらりとヤムセを見やる。
「あたしが一人前と認められるまでは……その、き、キスとかも無しという……ことでしょうか」
「まあ、そういうことになる」
ヤムセは楽な姿勢でソファにもたれ、手でタイをもてあそんでいる。
「先生は、それでいいんですか?」
「そうすべきだと思っている」
「そうかもしれないですけど! こう……せめて、キスとかはしても……いいのではと……」
これがほぼ実質的にキスをねだる台詞だということは理解していた。
理解していたが、羞恥に打ち勝ってでも確認しておかねばならなかった。
ヤムセは相変わらずの渋面で言った。
「その先に繋がりかねない行為は避けたい」
うおあ……とリティーヤの口からうめき声が漏れた。
その先とやらについて具体的な想像は控えておくが、キスからそういう……雰囲気に……なるということはなんだかありそうなことに思えた。よくわからないが、たぶん、まあ、あるだろう。
「そう……そうきたかあ……」
自分でも何を言っているのかわからないが、とにかくヤムセがどうしても今はまだ師弟でいたいというのは理解できる。
では、師弟の時でもしたことのある行為なら良いのでは?
リティーヤははっと気付いて、ヤムセと目を合わせた。
「じゃあ、あの、お……おやすみのキスは?」
「…………」
ヤムセから、こいつは本当にしつこいな、という視線が返ってきたが、リティーヤはくじけなかった。
「ほんとうに、ちょっと、触れるだけ……ですから」
「……私に触れることを避けているのはおまえの方かと思ったが」
「ひょあ」
確かに、狭い室内で触れ合うたびに、派手に避けてしまっていた。
「そ、それは……不意に触れると、あの、思い出して……キス、を、思い出して、照れちゃって。だから、大丈夫です。あ、ほら、エスコートも、大丈夫だったじゃないですか。ああいう、触れるのがわかってるのは大丈夫っていうか」
「…………」
しばらくヤムセは黙りこくっていたが、最終的には目を逸らし長々と溜息をついた末に言った。
「おまえがしたいのならやってみろ。挨拶のキス程度なら文句はない」
言質を取ったリティーヤは、ヤムセの横顔をじっと見上げた。彼の顔には独特の美しさがあって、自分がその頬に唇を寄せることなど許されるのだろうかという不安が沸き上がってくる。静かな水面に石を落として、生まれる波紋を恐れているような――そういう気持ちが、確かにあった。
それでもリティーヤは腰を上げ、身を乗り出して椅子の背に手をつき、ヤムセの頬にキスをした。どんな波紋が生まれるのか、恐れながらも期待する心地で。
軽く触れるだけのキスをすると、ヤムセはちらりとリティーヤを見て、同じく触れるだけのキスを頬に落としてくれた。緊張し、熱を持った目で、リティーヤはヤムセを見た。ヤムセはいつも通りの感情を窺わせない目でリティーヤを見つめている。ただ、彼の指が顔の横に垂れたリティーヤの金髪をひと筋掬い上げ、耳に掛けた。微かに肌と肌が触れ合って、リティーヤの頬は余計に上気する。耳朶の下で真珠が揺れた。
「……そんな顔をするな」
自分はどんな顔をしているのかとリティーヤは思った。ヤムセの目をただ見返す。感情なんてわからない目をしているが、確かに彼は自分を愛してくれていると思う――
なんて考えていたら、いきなり鼻を摘ままれた。
「ふわっ!?」
それでリティーヤも我に返ったが、随分距離が近くなっていた。危うく唇と唇が触れ合いそうな距離で、思わず息を呑む。自分の呼気が彼の唇にかかってしまった気がして身を引いた。きっちりリティーヤもう一人分の距離を置いて見つめ合う。ベッドにぶつかってしまうから、それが今取れる精一杯の距離だった。
二部屋取ると襲撃や何かがあった時に対応できない。追われる身であることを考えるとこれが最上の選択肢だったのだろうとは思うが、いかんせん自分たちには同室は難しすぎた。いや、ヤムセがどうかは知らないが、リティーヤにとってはそうだ。
自分がどんな顔をしているのか想像すると恐ろしくて、ヤムセと目を合わせられない。リティーヤは視線を逸らした。
船旅はあと一週間で終わる。
だがその後も、この距離を空けて、自分たちは留まるのだ。
リティーヤが一人前になるまで――
「せんせ」
「なんだ」
「……そんなに見ないでください」
真っ赤に染まった顔に、耳に、首筋に、視線を感じる。羞恥で訳がわからなくなってしまう。
ヤムセが目をそらして立ち上がった。
「少し出ている。着替えておけ」
ヤムセが言葉通り部屋を出て、扉が閉まる軽い音がしてから、リティーヤは長く細い息を吐いた。ネックレスに触れる。身内のものだったと言っていた。きっと姉の形見だ。その人がどれほど大事な存在だったか知っている。一度は家を出た彼を再び受け入れ、鍛え、そしてユローナに殺された姉の形見なのだ。
それを与えるほどだ。
冷淡に見えて、彼の愛が――あるいは執着が、重く深いことは理解しているつもりだった。手放そうとしたヤムセに抗って、列車を降りたのはリティーヤだ。
いつの間にか自分の唇に触れていた。ドレスと共布のグローブをしたままの指先で、いつかの思い出をなぞる。
「キスしたかったな……」
自分の呟きにまたうめき声を漏らし、リティーヤはついにその場に蹲った。