前編
「船では同室者がいるけど気にしないでね」
幼い顔に邪気のない笑みを浮かべ、ブローシズはそう言った。見た目だけなら十にも満たない愛らしい少女だ。今日は夏用の白と青のドレスに身を包み、リボンのついた帽子を被っている。
彼女はふっくらした唇をほころばせ、相棒である優しげな男性の傍らに立つ。男性の名はアヴォロット。紳士風の装いの、中年男性だ。
ブローシズとアヴォロット。二人は逃がし屋のトラリズ親子として知られている。
彼らはリティーヤらとともに宿の一室にいた。
波止場にほど近い宿で、窓からは出航を控えた汽船が見えた。ちょうどリティーヤらが乗る予定の、南方大陸へ渡る船だ。
出航の時間が迫っていた。
手配を頼んでいたチケットを受け取り、今まさに部屋を出ようとしていた時だった。
「はえ?」
リティーヤはすでにドアを開けていたから、ブローシズの声がよく聞こえなかった。聞き返し、足を止めたが、その直後にマントのフードを引っ張られ、部屋に引きずり込まれた。
「ぅえっ!?」
フードが首に引っかかってそんな声が漏れた。振り返るとヤムセが彼女のフードを掴んでいたが、彼はリティーヤを見てさえいなかった。彼のどこか暗さを感じさせる双眸はブローシズに注がれていた。
見るからに愛くるしい笑顔で、ブローシズはその視線を受け止めて、小首を傾げている。
アヴォロットが、リティーヤが開けたドアを静かに閉めた。
「同室者とはどういうことだ」
ヤムセが問いを発した。低く、不機嫌そうな声だった。大抵の場合、彼は不機嫌そうだが、リティーヤは気にしなかったし、ブローシズの方は気付いていてそれを揶揄のネタにする人間だった。
「あら、心配なのね。そうよね、せっかくの駆け落ち道中にお邪魔虫がいたら嫌だものね」
「安全上の問題を懸念している」
ヤムセの方は冷淡とも言える反応だったが、リティーヤはブローシズの発言に少なからず照れてしまった。そうだった、自分たちは駆け落ちの最中だった……。
リティーヤとヤムセが《学園》を出奔して早三ヶ月が経とうとしていた。
心地よい春風が吹き抜けたあの日、リティーヤは乗っていた汽車のコンパートメントから飛び降りて、ヤムセの元に駆け戻った。永遠の別れとなるはずだったあの日を、リティーヤは自分の意志で変えた。ヤムセはそれを突き放しはしなかった。いや、たぶん、できなかったのだろうとリティーヤは理解している。自分が彼を求めたように、彼もまた自分を――切実に――求めてくれたのだと思っている。
かくしてリティーヤたちは《学園》を出奔した。
《学園》はリティーヤに追っ手を差し向けているはずだ。失われていた〈昼〉の魔力がこの世界に戻り、やがては誰もが〈昼〉魔術を扱えるようになるとはいえ、今もリティーヤの特異性は手放すには惜しいものであるはずなのだから。
だが逃がし屋親子の手配のおかげか、ヤムセの経験と勘によるものか、リティーヤたちはそういった追跡の手を回避して、こうして南方大陸に行く船に乗ろうというところまでたどり着いていた。
北方大陸全域に《学園》の支配が及ぶわけではないので、おそらく北方大陸にとどまることもできたのだろう。
だが、今後のことを話し合った時、割合あっさり、南方大陸へ行ってみようということになった。
北方大陸は〈昼〉魔力が戻り、気候も安定しつつある。では、人類発祥の地とも言われる南方大陸ではどうなのか。かの地では〈昼〉魔力はどのようにそこにあり、どのような魔術として発展しているのか。
リティーヤとヤムセは確かに逃亡の身ではあったがそもそも魔術師であり、今後の北方大陸に起こりうる問題を知るため、〈昼〉魔力の研究のため、南方に渡ってみようという結論に至ったのだ。
だから、実のところリティーヤの中でこの逃避行は駆け落ちというよりは調査旅行じみたものになってきていた。常にトラリズ親子が同行しているわけではなく、普段は二人きりなのだが、北方大陸を離れ南方大陸へ行く準備で忙しく、駆け落ち旅行という響きから想像するようなしっとりとした雰囲気にはついぞなったことがなかった。
言われるまで忘れていたが、駆け落ち中だったのだ。
黙り込んでしまったリティーヤの熱を持った頬を、ブローシズがつついた。
「顔が赤いわ、大丈夫?」
「えっ、あっ、うん! 勿論!」
上擦った声で返事をしてしまい、さらにブローシズを調子づかせる。
「まあ、もっと顔が赤くなったわ! 目も潤んで……ねえ、どうかしら、おにいさんはどう思う?」
そう言って、ブローシズはヤムセに話しかける。話を向けられたヤムセはこの上なく迷惑そうだ。さすがにアヴォロットが割って入った。
「同室者についてはご安心ください。誓って《学園》とは無関係ですし、害を加えることもありません」
「『誓って』?」
その『誓い』にどれほどの価値があるのかと言いたげなヤムセに、アヴォロットが微笑んで言った。
「我々のような商売では、約束事はとても大事なのですよ。ひとたび信頼が損なわれれば、それを回復するには長い時間がかかります」
「……この土壇場で同室者をねじ込むような商売をしておいて、信頼を語るのか」
「それについては申し訳ないと思っていますよ。ただ、同室の方を一目見ていただければ、きっとよく理解していただけるのではないかと思います。特に、お二方にならば」
「勝手なことを――」
「まあまあ、ご覧になった方が話が早いと思いますよ」
そう言って、アヴォロットは鞄から書類を差し出した。
ヤムセはそれを受け取り――すぐに眉を顰めた。
「……おわかりいただけましたでしょうか?」
アヴォロットは穏やかな薄笑いを貼り付けたままヤムセに問うた。ヤムセの方は渋い顔だが、アヴォロットの申し出を突っぱねようという様子はもう見えない。
訝しく思ったリティーヤは、ヤムセの手元の書類を覗き込んだ。
それは調査票だった。
個体数、観測地の環境、地形、天候……などの情報が一覧になったもので、通し番号も振ってある。明らかに調査票の形式だった。
そして、その種名の欄を見て、リティーヤは思わず、あっ、と声を上げていた。
「えっ、えっ、これ……? いや、でも当たり前ですけどこれってつれてきちゃダメなやつ……」
リティーヤは声に出して呟いたが、アヴォロットは聞こえないふりをした。
「おっと、話し込んでしまいましたね。そろそろ行かれては?」
「これ、船にいるってことは……」
「上陸させてないから大丈夫よ?」
ブローシズはいかにも子どもらしく――と彼女が考える形でにこりと笑った。
「同室の方はすでに船内のお部屋にいらっしゃいます」
そう言うアヴォロットは相変わらず底の知れない笑みを浮かべている。
ヤムセはブローシズとアヴォロットを一瞥した。書類を手にしたまま、動こうとしない。根負けしたように、アヴォロットが言った。
「……他にはもうおまけはありませんよ。この件については私どもも大損なんです。こちらでその……『彼女』を受け取る予定だった人物が、別件で身柄を拘束されてしまいまして」
「何故殺処分しない?」
ヤムセが鋭く問いを発した。
「生きたまま連れ戻すより遙かに簡単だ」
リティーヤが驚いて叫ぶような声で言った。
「殺処分って……! そんなのダメですよ!」
「あら、あなたの可愛らしい恋人は反対みたいね、おにいさん?」
「簡単だという話をしているだけだ。それを推奨しているわけではない」
「うふふ、怒らないで。そうよ、勿論殺した方が簡単ね。でも『彼女』は全然捕まらないの」
捕まらない?
訝しげな顔のリティーヤに、ブローシズが説明した。
「『彼女』はね、とっても素早いの。専門家じゃないと、きっと捕まえるなんて無理。そして、あなたたちはたまたま専門家で、何より『彼女』を生きて故郷に帰したいって思っているでしょう?」
ブローシズの言いたいことが、リティーヤにもようやくわかった。
「……もし客が自由の身で荷を受け取れたとして、どうやって渡すつもりだったんだ。捕まえられもしないで」
皮肉めいたヤムセの問いに、ブローシズは華奢な肩をすくめて見せる。
「それはお客様ご自身になんとかしてもらうことになっていたのよ。そこまでは料金に入っていなかったわけだし」
「半端な仕事をしたものだな」
「契約書をきちんと確認するのって大事よね?
「同室者のことは契約書にはなかったはずだが?」
「……貸し一つ、と思ってくれていいわ。それから、部屋に特別に贈り物を用意したの。お詫びの気持ちよ」
ヤムセはなおもしばらくブローシズを冷淡な目で見下ろしていたが、唐突にリティーヤの手首を掴むと、ドアを開けて部屋の外に出た。
「そこまで見送らせてください」
アヴォロットは微笑みを浮かべたままそう言い、実際に宿の外まで彼らを見送った。
波止場に慌ただしく向かうリティーヤを見送って、ブローシズは手を振った。その隣で、彼女の家族であり仕事上の相棒であるアヴォロットはため息を吐いた。
「ヤムセ氏に怒られてしまいましたね」
「おねえさんは可愛いけど、おにいさんは全然可愛げがないのよね」
「まあ……あの状況ではヤムセ氏ならずとも怒りますよ。それにしても、贈り物とはなんのことですか?」
ブローシズは微笑んだ。月明かりの中で、悪戯っぽい笑みが輝くようだった。
「二人とも、きっと気に入ってくれるわ。おにいさんは可愛げがないけど、おねえさんは可愛らしいもの」
「……あまり若人をからかうものではありませんよ?」
ブローシズは軽やかな声を上げて笑った。
トラリズ親子が手配した客室には、洗面の他、二段ベッドが一つ、テーブルが一つ、椅子が二つコンパクトに配置され、ベッドの反対側の壁面にはワードローブが造り付けられていた。
小さなテーブルは、水を張ったボウルでほとんど占められていた。
ボウルには猫ほどもある生き物が入っている。全身は銀色に光る短毛の毛皮で覆われ、その下半身は水につかり、上半身はボウルの縁にもたれかかっている。その顔つきはネズミというよりはカワウソに近い。濡れたように光る黒い二つの目がリティーヤたちを見て一つぱちくりと瞬きをした。
「ひっ、ひああっ、ミナミウミネズミッ、本物のおっ、むぐ!?」
素っ頓狂な声を上げるリティーヤの口を、ヤムセが抱えていた荷物を放り投げて塞いだ。旅行鞄を顔面で受け止めて、リティーヤはくぐもった声を漏らした。変に固い……これはさっき大量に購入していたドロップが入っているやつだな、とリティーヤは察した。
「大きな声を出すな」
「だからっていきなり――あれ、ミナミウミネズミ、どこ行きました?」
「逃げた」
ヤムセは焦るでもなくそう言い、荷物の整理を始めた。
「部屋の外には出ていないはずだ。扉の開閉には気をつけろ」
「はあ……」
答えながらも、リティーヤは部屋を見回した。船内だから狭いのは当たり前だ。誰かと相部屋になるわけにはいかないから二人部屋を頼んだが、豪華なスイートに泊まる選択肢はない。高すぎるし目立ちすぎる。
だがとにかく扉は一つきりだ。ネズミと名がついていてもかなり大きい種類の生き物だから、扉以外から逃げることはできないだろう。
問題はその扉で、リティーヤは自分がそこまで注意深い方ではないのはわかっていたので、正直自信がないまま返事をしていた。
「……気をつけろよ」
ヤムセもリティーヤの返事を信用に値しないと思ったのか、かなりうさんくさそうなものを見る目をリティーヤに向け、念を押した。
リティーヤは二度目の返事はせず、あちこちを――テーブルの下とか、洗面ボウルの中とか、いろいろなところをのぞき込み、姿を消したネズミを探した。
「何年か前に話題になりましたよね。南方大陸に行った調査団の報告書。いろいろな、北方とは違う生き物がいて……すごく興奮したんですよね~! だからまさかこの目でミナミウミネズミを見られるとは……しかもなんですか、一緒の部屋で船旅までできちゃうなんて! ちょっとこれ興奮するなっていう方が無理じゃないですか?」
叫ぶように同意を求めてヤムセを振り返ったリティーヤの顔面に、再び荷が投げつけられた。柔らかい、布の感触だ。
「ちょ……またあっ、やめてくださいよ。人の顔面なんだと思ってるんです? 戸棚?」
「おまえもこの船旅をなんだと思ってるんだ。叫ぶな」
ヤムセはうんざりした様子で言い、なおも荷をあさっている。
「生態もはっきりわからない生き物を最終的には捕まえて船の外に出してやらなければならないんだ。できなければあいつはこの船の中で世話する者もいなくなって餓死するだけだ。しかもこちらも《学園》に追われる身だ。そんな気楽な旅行気分でいたら痛い目を見る」
「そりゃ……それくらいわかってますよう」
リティーヤは唇を突き出して言った。そう、リティーヤだってわかっている。この南方大陸への旅は《学園》からの逃避行であり、半ばは調査旅行だ。それでも、ブローシズが言ったような側面だって、一応あるはずなのだ。たぶん……。
「ところで、これなんですか?」
リティーヤはヤムセが投げて寄越した荷を見下ろして小首を傾げた。美しい光沢を放つ、濃紺のシルクのドレスだ。
「ブローシズが言っていたやつだろう」
「ああ、贈り物……えーっ、でも着る機会ないですね……」
船では夜毎晩餐会が開かれ、参加するには正装する必要があるが、そもそもリティーヤとヤムセは逃亡の身だ。そんな人目に触れるような場所に行くわけにはいかない。
だが、美しいものを愛でるのは喜ばしいことだ。リティーヤは滑らかな絹を撫で、その感触を楽しんだ。
「……リティーヤ」
ヤムセに名を呼ばれてリティーヤは顔を上げた。ヤムセは何か言おうとしていた。
だが、突然目の前を横切る影があって、二人ともそれどころではなくなった。
「ミナミウミネズミ!」
リティーヤが叫んだ。
ベッドの下から飛び出したネズミはテーブルの上に跳び上がり、さらに一跳びで二段ベッドの上に姿を消した。リティーヤは慌ててベッドの上を覗き込んだが、その時にはネズミはベッドから床に飛び降りて、散々部屋中を走ったり跳んだりしたあげく、水を張ったボウルにとぷんと頭から飛び込んだかと思うと、顔を水面に出し、優雅にひと掻きして、最初の時のように、ボウルの縁にもたれかかった。つぶらな目で見つめられ、リティーヤは心臓を撃ち抜かれでもしたかのように、胸を押さえて後ずさった。狭い室内だったので、ヤムセの腕にぶつかった。
「どうした、急によろめいて」
「かっ……可愛すぎて倒れそうです……! まずい、これ四六時中一緒とかほんと心臓が保たないです」
「……そうか……」
なんだか、今の『そうか』は少し変な響きがあった。
リティーヤはヤムセを振り返った。彼はネズミを見つめていて、リティーヤを見てはいなかった。
リティーヤの視線を感じてか、彼は彼女に一瞥をくれた。
視線が、絡む。
なんとなく、それでリティーヤも察してしまった。
可愛らしい生き物とだけではない。
ヤムセとも、四六時中この狭い部屋で過ごすのだ。それを意識した途端、急にリティーヤは顔に熱が集まるのを感じた。いや、顔といわず、体温が上がった気がする。唇を、キスを思い出す。
突然、触れ合っていた腕と腕に気付いて、リティーヤはがばりと身を離した。大きな動きになってしまって、ヤムセが不満そうに眉を顰めた。
だが彼はそのことについては触れず、リティーヤを素通りして下段のベッドにシーツを敷き始めた。
「おまえは上を使え」
「う、あ、はい……」
意識してしまった羞恥から返答がぎこちなくなる。
はしごを使って上段のベッドにたどり着くと、リティーヤはベッドと天井の高さの差とか、糊が効いてパリッとしたシーツだとかに集中させようとした。
だが、ついついリティーヤはキスを――彼との今のところただ一度きりの唇へのキスを思い返し、赤面してシーツに突っ伏してしまった。
あの日、リティーヤが《学園》からの出奔を決めたあの日、確かにヤムセはリティーヤにキスをした。一瞬触れただけとか、頬とか、そういう言い訳できるやつではなく、はっきりと、しっかりと、唇を重ね合わせたのだ。
だが、こうして一緒に数ヶ月過ごしても、その後彼がリティーヤにキスをしてくることはなかった。
おやすみのキスくらいあってもよいのではないか? と思うものの、何しろこれまでは忙しかったので、改めて問いただすような時間もなかった。
船上では、ヤムセはミナミウミネズミの捕獲を試み、リティーヤも餌を工夫したりしてみたものの、一向にこの小さな生き物は捕まらなかった。
いくら南方大陸の種とはいっても、まったく異なる法則の元で生きているわけではない。腹が空けば餌を求めるだろうと思ったものの、罠など用意しようものなら絶対に手を出さないし、人の手が届く範囲にも近づかない。
一通り思いつく手段を講じたあとは、優雅に水のボウルで泳ぐネズミを横目に、ヤムセは船に乗る前に渡されたミナミウミネズミについての報告書を読み返し、リティーヤも南方大陸の言葉を学習したりして過ごすようになった。
出航から数日経ち、船の揺れにも慣れた頃だった。
「せんせ」
ただ、舌の上に言葉を載せた。
リティーヤはテーブルの上にほとんど突っ伏すようにして、ヤムセを見ていた。水のボウルは洗面台の下に移してある。ミナミウミネズミは気まぐれに姿を隠している。テーブルの上には辞書とノートと例文が載ったテキストが広げられている。今は南方語、それから次は昼の休憩を挟んで古代ヘビ語だ……。
ヤムセはベッドに腰掛け、南方大陸へ行った調査団の報告書を読み返している。この旅路も、彼にとっては調査旅行に過ぎないのではないかという気がしてくる。いつも通りの、冷淡さを感じさせる顔だ。
その骨張った指で報告書をめくり、薄い唇を開いて彼は言った。
「どうした、リティーヤ」
「えっ」
思わずリティーヤは聞き返して顔を上げた。昨日学習したはずの南方語の言い回しがどうしても思い出せず、呻きながらテーブルに突っ伏していたのだが、あまりに態度がよくなかっただろうか。
ヤムセは思案げに伏せていた目を上げ、じろりとリティーヤの目を覗き込んだ。
「呼んだだろう」
「……呼びましたっけ?」
リティーヤは小首を傾げる。ヤムセは長々とため息をついた。
「用もないのに呼ぶな。それから、思い出せないならいい加減昨日のノートを見ろ」
「いや……もうちょっと、こう、喉元まで出かかってて……あっ、そうだ思い出した」
そう言いながら、リティーヤはペンを取ってノートに書き付けた。よし、ちゃんと思い出せた。
「ほら、思い出せましたよ」
誇らしげに言うリティーヤを、ヤムセはもう見ていなかった。リティーヤのノートを覗き込み、指でとんと突く。わずかに癖のある黒髪がリティーヤの目前で揺れる。
「綴りが違う。正確には……」
「あ、それ書き方汚いだけです」
リティーヤの言葉を聞いて、ヤムセが眉を顰めてノートを見つめた。字が汚すぎて綴り間違いに見えたのだ。ヤムセはため息を飲み込んだみたいな顔をした。
「綴りが正しくても読めなければ意味がないだろう」
「これはほら、自分用だから……人に見せる時は気を付けますよう!」
「自分で読み返す時に解読できるのか……?」
ああだこうだと言い合いながら、リティーヤは、なんだ、いつも通りだなと感じていた。ちょっとぼんやりしてしまう瞬間があるのは、きっと時間に余裕があるからだ。出発までにあれをしなければこれをしなければと思っていたのが、出発して、気が緩んだのだ。
リティーヤは次の例文に取りかかり、文章をぶつぶつと声に出して読み上げた。口の中で、自分の読解のためだけに呟いているうちに、そういえばさっき確かに自分がヤムセを呼んだという気がした。こんなふうに、自分のためだけに呟くように。
『せんせ』
彼を見つめるうちに漏れ出た声は、やけに甘ったるいものではなかったろうか。
リティーヤは唐突に羞恥を覚えて顔面を赤くしたり白くしたりして固まった。
報告書を読むヤムセはそれを知ってか知らずか、いつも通り不機嫌そうに、飴をがりがりと噛み砕いていた。